第六百二話「地下水路の黒い影と、姫殿下の『夜明け前の舟遊び』」
その夜、王城の地下深くに広がる巨大な貯水池は、不穏な波音と、地響きのような唸り声に支配されていました。
水面が激しく波打ち、時折、闇そのもののような巨大な黒い影が、ザバァァァ! と身をくねらせては、地下の空気を震わせていたのです。
緊急出動した騎士団長のフリードリヒ王子は、松明を掲げ、水面を睨みつけました。
「あれは……古の伝承にある『太陽を食らう蛇』の眷属か!? このままでは、城の土台が崩されるぞ。総員、構え!」
騎士たちが槍や弓を構え、魔導士たちが攻撃呪文の詠唱を始めます。地下空間は、魔物討伐の殺気に満ちていました。
◆
しかし、その殺伐とした空気の中に、場違いなほど軽やかな足音が響きました。
シャルロッテが、パジャマの上にレインコートを羽織り、モフモフを抱いてやってきたのです。
「待って、兄様! あの子をいじめちゃだめだよ!」
「シャル! ここは危険だ! あの影は、光を憎み、世界を闇に沈めようとしているのだ!」
フリードリヒが叫びますが、シャルロッテは首を横に振りました。
彼女の目には、その巨大な黒い蛇のような影が、恐ろしい魔物ではなく、「夜が長すぎて退屈し、暴れている大きな子供」に見えていたのです。
「ううん。あの子はね、お日様が大好きなの。でも、夜の間はお日様に会えないから、寂しくて、拗ねているだけなんだよ」
シャルロッテは、騎士たちの制止を振り切り、貯水池の岸辺に係留されていた小舟に飛び乗りました。
モフモフも、「やれやれ」といった顔で続きます。
「シャル、よせ! 食われるぞ!」
シャルロッテは、小舟の舳先にランタンを吊るしました。
その小さな灯りは、広大な地下の闇の中では頼りないものでしたが、シャルロッテはそこに光属性魔法を込めました。
すると、ランタンの光は、暖炉の火のように温かく、そして黄金色に輝き始めました。それは、擬似的な「小さな太陽」でした。
「おーい、影さん! お日様の代わりを持ってきたよ! 一緒に遊ぼう!」
シャルロッテが声を上げると、暴れていた黒い影がピタリと止まりました。
水面から、ぬぅっと巨大な頭部(のような闇の塊)が持ち上がり、シャルロッテの小舟に近づいてきました。
その姿は、城を飲み込めるほど巨大でしたが、ランタンの光を見ると、猫が猫じゃらしを見つけた時のように、興味深そうに身を寄せました。
シュルルル……。
影が動くたびに、水面が揺れますが、シャルロッテの小舟は転覆することなく、ゆらゆらと優しく揺れるだけでした。
「よしよし。寂しかったんだね。朝まで、ボートでお散歩しようね」
シャルロッテは、オールを漕ぐ真似をしました(※実際には水流魔法で進んでいます)。
小舟は、地下水路の奥へと滑るように進み始めました。
巨大な影は、その小舟の後ろを、まるで親ガモを追う雛のように、大人しくついていきます。時折、ランタンの光に触れようとして、鼻先(?)を近づけては、温かさに目を細める(ような気配を見せる)のでした。
岸辺に残されたフリードリヒと騎士たちは、呆然とそれを見送りました。
討伐すべき魔物が、姫殿下のペットのように大人しくなり、優雅なクルージングを楽しんでいるのです。
「……信じられん。あいつは、光を憎んでいたのではなく、光を求めていただけだったのか」
地下水路を一周する頃には、影の体から発せられていた荒々しい魔力は消え、透き通るような静かな水音だけが残りました。
シャルロッテは、ランタンの光を少しずつ弱めながら、優しく語りかけました。
「もうすぐ、本物の朝が来るよ。そうしたら、もっと大きくて暖かいお日様に会えるからね」
やがて、地上の通気口から、微かな朝の光が差し込み始めました。
その光を浴びた瞬間、黒い影は、満足げにため息をついたかと思うと、シュワシュワと霧のように解け、清らかな水の一部へと還っていきました。
それは、太陽に焼かれたのではなく、光と一体化したような、神々しい消滅でした。
シャルロッテは、岸に戻り、モフモフとハイタッチをしました。
「よかったね。影さんも、お日様に会えて嬉しそうだったよ」
フリードリヒは、剣を収め、妹を抱き上げました。
「……ああ。俺たちの剣では、夜を追い払うことはできても、朝を連れてくることはできなかったな」
その日の朝、王城の噴水からは、いつも以上に澄み切った、輝くような水が溢れ出し、人々の喉と心を潤したそうです。
それは、夜の間に繰り広げられた、小さな太陽と巨大な影の、仲直りの証でした。




