第六百一話「嵐の夜の狩人と、姫殿下の『銀の笛の落とし物』」
その夜、エルデンベルク王国の上空は、季節外れの猛烈な嵐に見舞われていました。
黒い雲が渦を巻き、風が唸り声を上げ、時折、遠雷のような、あるいは無数の馬の蹄が空を駆けるような、重苦しい轟音が響き渡っていました。
王城の古参の兵士たちは、青ざめた顔で空を見上げ、窓の鎧戸を固く閉ざしました。
「あれは……『ワイルドハント』だ。亡霊の王が、地獄の猟犬を引き連れて、魂を狩りに来たのだ」
「見るな。目を合わせたら、連れて行かれるぞ」
城内は、死の予兆に対する原初的な恐怖に包まれ、静まり返っていました。
◆
しかし、薔薇の塔の最上階では、シャルロッテがベッドから抜け出し、窓ガラスに鼻を押し付けていました。
彼女の腕の中では、モフモフが、雷鳴に怯えるどころか、空に向かって何かを訴えるように、低く唸っていました。
「ねえ、モフモフ。空の上の人たち、なんだかすごく困っているみたいだね」
シャルロッテの目には、その嵐が「狩り」には見えませんでした。
空を駆ける半透明の騎馬隊と、幽鬼のような犬たちは、獲物を追っているにしては、動きがバラバラで、行ったり来たりを繰り返していたからです。
それはまるで、大切なものを草むらに落としてしまい、必死に探している子供たちのようでした。
そこへ、心配したフリードリヒ王子が、剣を帯びて部屋に入ってきました。
「シャル! 窓から離れろ! 今夜の嵐は、ただの天気ではない。邪悪な気配がする」
フリードリヒがシャルロッテを抱き寄せようとしたその時、突風と共に、バルコニーの窓がガタガタと激しく揺れました。
ガラスの向こうに、巨大な、灰色のマントを羽織った「狩人の王」の亡霊が、ぬっと顔を覗かせたのです。
その顔には目も鼻もありませんでしたが、深い、底知れぬ焦燥感が漂っていました。
フリードリヒは息を飲み、剣を抜こうとしました。
しかし、シャルロッテは兄の手を止め、窓の鍵を開け放ちました。
「待って、兄様。このおじさん、泣きそうな顔をしてるよ」
猛烈な風が部屋に吹き込みましたが、シャルロッテは飛ばされることなく、バルコニーへ歩み出ました。
狩人の王は、シャルロッテを見下ろしました。その巨大な手は、何かを握る形をしていましたが、そこには何もありませんでした。
シャルロッテは、大声で叫びました。風の音に負けないように。
「おじさーん! 何を落としちゃったのー!?」
狩人の王は、言葉を発しませんでした。その代わり、悲しげに空を指差し、そして、自分の口元に手を当てる仕草をしました。
そして、周囲を飛び回る幽鬼の犬たちが、制御を失って吠え立てているのを、困ったように見つめました。
シャルロッテは、すぐに理解しました。
「わかった! 犬さんたちを呼ぶための、『笛』を落としちゃったんだね!」
狩人の王が、コクン、と大きく頷きました。
指揮官が笛を失くしてしまったせいで、亡霊の軍勢は帰るべき場所もわからず、嵐の中で迷子になっていたのです。それが、この荒れ狂う「ワイルドハント」の正体でした。
「モフモフ、探して! あのおじさんの匂いがするものを!」
シャルロッテの言葉に、モフモフがバルコニーの手すりに飛び乗りました。そして、嵐の風に含まれる微かな匂いを嗅ぎ分け、鋭く「ワンッ!」と庭園の一角を指し示しました(熊ですが)。
シャルロッテは、風属性と光属性の魔法を融合させました。
彼女は、庭園の茂みの中に落ちていた、冷たい月の光を反射する小さな物体を、風に乗せてふわりと浮き上がらせました。
それは、古びた、しかし美しい銀色の笛でした。
「はい、これ! もう落としちゃだめだよ!」
シャルロッテの手から、狩人の王の巨大な手へと、笛が渡されました。
狩人の王は、笛を受け取ると、深々とシャルロッテに一礼しました。
そして、高らかに笛を吹き鳴らしました。
ヒョオオオオオ……!
その音は、嵐の風音を一瞬にして調和させ、美しい夜の和音へと変えました。
暴れ回っていた幽鬼の犬たちや騎馬隊は、笛の音を聞くと、すぐさま整列し、王の後ろに従いました。
嵐が、嘘のように静まりました。
雲が割れ、そこから伸びる月光の道を、狩人の一行は、静かに、厳かに昇っていきました。
去り際、犬たちが一斉にシャルロッテに向かって尻尾を振り、空からキラキラとした氷の結晶を降らせていきました。
フリードリヒは、剣を収め、呆然と空を見上げました。
「……悪霊の行進だと思っていたものが、ただの『迷子の帰還』だったとはな」
シャルロッテは、手のひらに残った氷の結晶を見つめました。それはすぐに溶けてなくなりましたが、指先には冷たくて優しい感触が残っていました。
「よかったね。これでみんな、お家に帰れるね」
その夜、王城の人々は、嵐が突然止み、美しい星空が広がったことに驚きました。
けれど、それが一人の幼い姫君と、うっかり屋の亡霊の王様との、小さな「落とし物」のやり取りのおかげだとは、誰も知りませんでした。
恐怖の伝承は、シャルロッテの愛ある解釈によって、静かで美しい夜の秘密へと書き換えられたのでした。




