第五百九十八話「賢者の釜と、姫殿下の『甘くておいしい黄金』」
その日の午後、王城の地下深くに設けられた錬金術の実験室は、怪しげな紫色の煙と、硫黄の匂い、そしてブツブツという煮え立つ音に満たされていました。
そこには、大陸一の錬金術師と謳われる老人、ニコラが、血走った目で巨大な鍋をかき混ぜていました。
「あと少し……あと少しで『賢者の石』が完成する。これさえあれば、鉛を純金に変え、永遠の命さえも手に入るのだ……!」
彼の周りには、実験材料である鉛の塊や、水銀の瓶、そして難解な魔方陣が散乱していました。ニコラは、富と時間をすべてこの研究に費やし、もはや何が幸福なのかを見失いかけていました。
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そこへ、シャルロッテがモフモフを抱いて、探検にやってきました。
彼女は、鼻をつまみながら、煙の充満する部屋に入ってきました。
「うわあ、変な匂い。ニコラおじいさん、焦げてるよ?」
ニコラは、手を休めずに叫びました。
「姫殿下! 入ってはいけません! 今、私は『大いなる業』の最中なのです。鉛を黄金に変える、歴史的瞬間なのですぞ!」
シャルロッテは、鍋のそばに積み上げられた、鈍色に光る重たい鉛の延べ棒を見ました。そして、ニコラが目指している「黄金」を想像しました。
「ふうん。でもね、おじいさん。金色の石って、食べられないでしょう? 重いし、冷たいし、枕にもならないよ」
ニコラは鼻で笑いました。
「姫様にはわかりますまい。金があれば、世界中のあらゆる美味しいものが買えるのです!」
シャルロッテは、首を傾げました。
彼女のポケットには、エマにもらった「キャラメル」が入っていました。
彼女にとっての「黄金」とは、口の中でとろける、あの甘い四角い塊のことでした。
「お金で買うより、今、ここにあるほうが嬉しいし、可愛いよ!」
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シャルロッテは、鍋に近づきました。
鍋の中では、得体の知れないドロドロした液体が泡立っています。
「ねえ、おじいさん。ここに『甘い魔法』を入れたら、もっと素敵な金色になるんじゃない?」
シャルロッテは、ポケットからキャラメルを一粒取り出し、包み紙を剥いて、ポチャンと鍋に放り込みました。
さらに、彼女は光属性と火属性の魔法を、ごく微量、鍋の底に送りました。それは、「物質の変成」ではなく、「風味の凝縮」を促す魔法でした。
「ああっ! 何をするんですか! 不純物が……!」
ニコラが悲鳴を上げた、その時です。
ボフッ!
鍋から、甘く、香ばしい、焦がしバターのような香りのする金色の煙が噴き出しました。
硫黄の臭いは消え、部屋中が、まるで巨大な菓子店のような幸せな匂いに包まれました。
そして、鍋の中の液体は、みるみるうちに透き通った琥珀色に変わり、粘り気を帯びていきました。
シャルロッテは、近くにあった鉛の棒を一本手に取り(魔法で軽くして)、その液体の中に浸しました。
引き上げると、鉛の棒は、艶やかな琥珀色の飴でコーティングされ、キラキラと輝いていました。
「見て! 『黄金の棒』ができたよ!」
それは、本物の金ではありませんでした。
しかし、それは鉛の冷たさを封じ込め、甘い香りを放つ、巨大な「キャラメル・コーティング・バー」へと変貌していたのです。
◆
ニコラは、呆然とその棒を見つめ、そして漂ってくる甘い香りに、無意識に唾を飲み込みました。
彼は、恐る恐るその「黄金」の端を舐めてみました。
「……あ、甘い。そして、懐かしい……なんだ、この心の安らぎは……」
口いっぱいに広がる砂糖とミルクの味。それは、彼が錬金術に没頭するあまり忘れていた、子供の頃の幸福な記憶を呼び覚ましました。
永遠の命よりも、莫大な富よりも、今、この瞬間に舌の上で溶ける甘さの方が、遥かに心を癒やしたのです。
「……私は、何を求めていたのでしょう。鉛を金に変えずとも、鉛を芯にして甘い夢を見ることのほうが、よほど錬金術らしいではありませんか」
シャルロッテは、鍋の残りの液体を、小さな型に流し込みました。
冷えて固まると、それは宝石のように美しい「黄金色のキャンディ」になりました。
「はい、おじいさん。これこそが『賢者の石』だよ! これを舐めるとね、みんなニコニコして、長生きできるんだよ! おじいさんも可愛く歳をとってね!」
その日の午後、錬金術室からは、怪しげな煙の代わりに、甘いお菓子の香りが漂い続けました。
ニコラ・フラメルは、鉛を金に変えることはできませんでしたが、代わりに「不機嫌な顔を笑顔に変える」という、もっと素敵な魔法を手に入れたのでした。




