第五百九十七話「黄昏のテラスと、姫殿下の『さよならの苺』」
その日の夕方、王城の西のテラスは、燃えるような茜色と、忍び寄る夜の群青色が混ざり合う、一瞬の魔法の時間を迎えていました。
そこに、一人の若い宮廷詩人、マルティンが佇んでいました。彼は、沈みゆく太陽を見つめながら、震えていました。彼は「夜が来ること」、すなわち「今日という日が死んでしまうこと」を極度に恐れる、繊細な魂の持ち主でした。
「ああ、待ってくれ、太陽よ。行かないでくれ。君が沈めば、この美しい『今日』は永遠に失われてしまう。後はただ、暗い虚無……夜……が待っているだけだ……」
マルティンは、時間の流れを呪い、永遠の昼を願っていました。彼にとって、終わりとは絶望そのものでした。
◆
そこへ、シャルロッテがモフモフを抱いて、夕涼みにやってきました。
彼女の銀髪は、夕日を浴びてピンクゴールドに輝いています。
彼女は、マルティンの悲壮な顔を見て、不思議そうに首を傾げました。
「ねえ、マルティンお兄さん。お日様にお別れしてるの?」
マルティンは、悲痛な声で答えました。
「姫殿下。お別れではありません。私は拒絶しているのです。なぜ、楽しい時間は終わらねばならないのでしょう。終わりがあるというだけで、全ての喜びは色あせてしまう気がするのです」
シャルロッテは、手すりに肘をつき、沈みゆく太陽を見ました。
彼女の目には、「終わり」は「虚無」ではありませんでした。
「うーん。でもね、お兄さん。終わらないと、味もしなくなっちゃうよ?」
「味が、しない?」
シャルロッテは、ポケットから、大切にとっておいた「最後の一個の苺キャンディ」を取り出しました。
「見て。この飴はね、あとちょっとで舐め終わっちゃうの。でもね、だからこそ、今、すっごく甘くて、大切に感じるの」
シャルロッテは、キャンディを光に透かしました。
「もしね、この飴が永遠になくならなくて、ずーっと口の中にあったら、どうなると思う?」
「それは……ずっと甘いでしょう」
「ううん。きっと、甘いことに慣れちゃって、『味がしない』って思っちゃうよ。それどころか、邪魔になってペッてしたくなっちゃうかも」
シャルロッテは、残酷な真理を、無邪気に突きつけました。
永遠に続く生は、退屈という名の地獄かもしれないのです。
◆
シャルロッテは、空に向かって手をかざしました。
彼女は、光属性と時間魔法を融合させました。
彼女の魔法は、太陽を止めることはしませんでした。
その代わりに、沈みゆく太陽の最後の光を、プリズムを通したように七色に分散させ、空全体を「フィナーレの幕」のように豪華に彩らせました。
「見て! お日様がね、『バイバイ、また明日!』って、一番派手なドレスに着替えたよ!」
空は、赤、紫、金、緑と、めまぐるしく色を変えました。
それは、太陽が消える断末魔ではなく、今日という一日を締めくくる、最高のカーテンコールでした。
「終わりがあるから、この一瞬が、こんなに綺麗なんだよ」
シャルロッテは、キャンディを口に入れ、カリッと噛み砕きました。
甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、そして消えていきます。
「んー、美味しい! ごちそうさまでした!」
マルティンは、その光景を見て、ハッとしました。
彼が恐れていた「夜(=死)」は、実は「今日という日の完成」のために不可欠な要素だったのです。終わりを意識するからこそ、今この瞬間が強烈に輝く。彼は「死への存在」という概念を、幼い少女の「おやつの哲学」から学んだのです。
「……そうか。私は、失うことを恐れるあまり、味わうことを忘れていたのですね」
太陽は完全に沈み、一番星が光りました。
しかし、マルティンの心に恐怖はありませんでした。あるのは、「今日を生ききった」という、心地よい疲労感と満足感だけでした。
シャルロッテは、モフモフを抱き上げました。
「さあ、帰ろう。夜はね、明日のための『お楽しみの準備時間』だよ!」
二人は、薄暗くなった回廊を歩き始めました。
マルティンは、手帳を取り出し、新しい詩を書き始めました。それは、永遠を嘆く詩ではなく、過ぎ去る一瞬の美しさを讃える、愛の詩でした。
終わることは、悲劇ではありません。
それは、ショートケーキの上の苺を食べる瞬間のように、一番美味しいところなのです。




