第五百九十六話「鉛の文字盤と、姫殿下の『無限のキス・マシン』」
その日の午後、王城の地下にある古い印刷所は、重苦しい沈黙と、鼻を突くインクの油の匂いに満ちていました。
そこには、王立書記官のヨハネス爺さんが、山積みになった羊皮紙を前に、腱鞘炎になりそうな手をさすりながら座り込んでいました。
彼は、来月の「星祭り」の招待状を、一枚一枚、手書きで書いていたのです。その数は千枚以上。
横には、マリアンネ王女が開発した最新鋭の「魔導活版印刷機」が置いてあるのですが、ヨハネスは頑としてそれを使おうとしませんでした。
「……機械はいかん。機械で刷った文字には、体温がない。魂がない。相手を思う心は、筆の運びの『揺らぎ』にこそ宿るのじゃ」
ヨハネスは、文字の「個体差」こそが愛だと信じる、古き良き職人でした。しかし、祭りの日は迫っており、彼の手は限界を迎えていました。
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そこへ、シャルロッテがモフモフを連れて、インクの匂いに誘われてやってきました。
彼女は、疲れ切ったヨハネスと、埃を被った印刷機を交互に見ました。
「ねえ、ヨハネスおじいさん。その大きな機械さん、退屈そうにしてるよ?」
「姫殿下……。あれは『冷たい鉄の塊』です。あれで刷ると、千枚の手紙が、全部同じ顔になってしまうのです。それは、受け取る人への冒涜です」
シャルロッテは、印刷機の「活字(※鉛のハンコ)」が並んだケースを覗き込みました。
無数の文字が、逆さまに彫られた金属の棒として、整然と並んでいます。
彼女の目には、その整列した文字たちが、冷たい兵隊ではなく、「出番を待っている、お行儀のいい合唱団」に見えました。
「ううん、違うよ。同じ顔っていうのはね、『えこひいきしない』ってことだよ」
シャルロッテは、ヨハネスの手から羽ペンをそっと取り上げました。
「おじいさん。手書きだとね、疲れてくると字がヨレヨレになっちゃうでしょう? そうすると、最後にもらった人は『僕の手紙だけ、元気がないな』って悲しくなるよ」
シャルロッテは、活字を一つ手に取りました。それはズシリと重い、「愛」という文字でした。
「でもね、この鉄の文字さんは、何度押しても、絶対に疲れないの。最初の人にも、千番目の人にも、全く同じ強さで、全く同じ形の『大好き』を届けられるんだよ!」
彼女は、それを「無限のキス・マシン」と名付けました。
何度繰り返しても変わらない、永遠の誓いのようなキスだと。
◆
シャルロッテは、印刷機に飛び乗りました(※危ないのでモフモフが支えています)。
そして、土属性と風属性の魔法を、機械の歯車に流し込みました。
「さあ、機械さん! みんなに平等な愛を配るよ!」
ガシャン、ゴシャン!
印刷機が、リズミカルな音を立てて動き始めました。
インクのローラーが活字を撫で、紙が吸い込まれ、プレスされる。
シュッ、ポン! シュッ、ポン!
吐き出される招待状の文字は、くっきりと黒く、凛としていました。
ヨハネスは、その一枚を手に取りました。
インクがまだ乾いていない文字からは、微かな熱と、機械油の匂い、そして不思議なことに「誇らしげな気配」が立ち上っていました。
「……確かに。この文字は、胸を張っている。千枚目でも、決して背筋を曲げない、騎士のような文字だ」
ヨハネスは、自分の震える手と、機械の力強い仕事を見比べ、涙ぐみました。
機械的な複製は、愛の欠如ではなく、「愛の持続力」の証明だったのです。
シャルロッテは、次々と刷り上がる招待状の山にダイブしました。
「わあ! インクの匂いって、ワクワクするね! これなら、国中の人に招待状を送れるよ! ヨハネスさん、もっと可愛い招待状を作っちゃおう!」
ヨハネスは、印刷機のハンドルを、今度は自らの手で回し始めました。
「……負けました、姫殿下。私の手は老いましたが、この鉄の腕があれば、私の愛は無限に増やせますな」
その日の夕方、王城の郵便受けは、かつてないほど大量の、そして一枚残らず完璧に美しい招待状で溢れかえりました。
それは、文明の利器が、「効率」のためだけでなく、「愛の公平さ」のために使われた、最初の記念日となったのでした。




