第五百九十二話「曇りガラスのキャンバスと、姫殿下の『指先の美術館』」
その日は、朝から冷たい雨がシトシトと降り続いていました。
王城の廊下は少しひんやりとしていて、外の景色は雨に煙って灰色です。
シャルロッテは、少し退屈でした。外で遊べないし、モフモフもなんだか眠そうです。
ふと、廊下の大きな窓を見ると、ガラスが真っ白に曇っていました。
部屋の中が暖かくて、外が寒いから、結露ができているのです。
「あ、白い壁ができてる」
シャルロッテは、窓に近づきました。
ハーッ、と息を吹きかけると、白さがもっと濃くなります。
彼女は、人差し指を立てて、その白い曇りの上に、キュッ、と線を引きました。
指が通ったところだけ水滴になって、向こう側の灰色の空が透けて見えます。
「お花、描けた」
単純な丸と線だけの花。でも、曇りガラスの上では、なんだか特別な芸術作品に見えました。
楽しくなって、シャルロッテは次々と絵を描き始めました。
モフモフの顔、リボン、お城の塔。
キュッ、キュッ、という、指が湿ったガラスを擦る音が、静かな廊下に響きます。
そこへ、書類をたくさん抱えたアルベルト王子が通りかかりました。
彼は眉間に皺を寄せて、難しい顔をしていました。雨の日は古傷が痛むのか、それとも仕事が溜まっているのか、少し不機嫌そうです。
「……シャル。ガラスを触ると、あとで指紋が残るぞ」
兄の小言に、シャルロッテは振り返ってニカっと笑いました。
「兄様! 見て見て! 今ね、個展を開いてるの!」
アルベルトは、仕方なさそうに足を止め、妹の「作品」を見ました。
下手くそな、でも愛嬌のあるモフモフの似顔絵。
そして、その横のスペースはまだ白く残っています。
「兄様も描いていいよ。ここ、空いてるから」
アルベルトは、書類を持ち直しました。
「私は忙しいんだ。それに、私には絵心なんて……」
そう言いかけて、彼はふと、窓ガラスを見つめました。
白く曇ったガラスは、なぜだか無性に「触りたくなる」魔力を持っていました。子供の頃、こうやって落書きをした記憶が、ふわりと蘇ったのかもしれません。
アルベルトは、ため息を一つついて、人差し指を伸ばしました。
そして、シャルロッテの描いた花の隣に、幾何学的な「正六角形」を描きました。
「……蜂の巣の構造だ。最も効率的な空間充填形だよ」
相変わらず理屈っぽい絵です。
でも、描いた線から水滴がタラリと垂れて、六角形がちょっと泣いているみたいに崩れました。
「あ、泣いちゃった」
「……水分の凝集率が高すぎたか」
二人は、顔を見合わせてクスッと笑いました。
一度指を濡らしてしまうと、もう止まりません。
アルベルトは書類を床に置き、シャルロッテと並んで、窓いっぱいに数式や図形や、変な生き物の絵を描き始めました。
モフモフも参加して、鼻先をガラスに押し付けました。
プシュッ。
完璧な「黒い楕円形」のスタンプが出来上がりました。
「わあ、モフモフが一番上手だね!」
しばらくすると、描きすぎた線が互いに溶け合って、窓ガラスは涙を流したように水滴だらけになり、絵は消えてしまいました。
でも、その代わりに、視界がクリアになって、雨上がりの庭の緑が、キラキラと輝いて見えました。
「あ、晴れてきた」
アルベルトは、ハンカチで指を拭きながら、憑き物が落ちたような穏やかな顔をしていました。
「……まあ、たまには、こういう非生産的な時間も悪くないな」
描いた端から消えていく、一瞬だけの美術館。
後に残るのは、少し汚れたガラスと、冷たくなった指先、そして温かくなった心だけ。
シャルロッテは、兄の手を取りました。
「兄様、お茶にしよっか。温かいミルクティーが飲みたいな。やっぱり美術館の個展には可愛いミルクティーだよね!」
二人は、まだ少し曇っている窓を背にして、大食堂へと歩いていきました。
雨の日の退屈は、指先ひとつで、こんなにも優しい思い出に変わるのです。




