第五百八十八話「名もなき草の海と、姫殿下の『緑のハンカチーフ』」
その日の午後、風はよく通り、太陽は惜しみなく降り注いでいました。
王城の裏手に広がる丘陵地帯は、刈り取られることのない、背の高い野草たちで覆われていました。
第一王子アルベルトは、植物学の書物を片手に、その草原を歩いていました。彼は、草の名前を一つ一つ確認し、分類し、その生態系を理解しようと努めていました。
「これはイネ科の……ふむ、こちらは外来種か。風の分布図と種子の飛来経路を計算すれば、この植生の由来がわかるはずだ」
彼は、世界を「理解」しようとしていました。
しかし、草の海は、彼の知識よりもずっと深く、騒がしく、そして生きていました。
ふと、草むらの奥から、ガサゴソという音と共に、シャルロッテの銀色の頭がひょっこりと現れました。髪の毛には、オナモミや小さな種がいっぱいくっついています。
「あら、アルベルト兄様。兄様は、草の名前を知りたいの?」
アルベルトは本を閉じました。
「ああ。名前を知れば、その性質がわかるからね」
「ふうん。でもね、草さんは、『名前なんてどうでもいいよ』って言ってるよ」
シャルロッテは、モフモフと一緒に、背の高い草の中に埋もれるようにして座り込みました。彼女の姿は、緑の海に浮かぶ白い小舟のようです。
「兄様。草ってね、神様が落とした『緑色のハンカチ』なんだよ」
それは、どこかの詩人が口にしたような、唐突で、美しい定義でした。
「ハンカチ?」
「うん。世界中のどこにでもあって、いい匂いがして、誰の涙でも拭いてくれるでしょう? それにね、この草の一本一本が、お喋りな舌なの」
シャルロッテは、周囲の草に、風属性と土属性の魔法を、ごく薄く、霧のように浸透させました。
それは、何かを操作する魔法ではありません。
ただ、世界が発している「生存の歌」のボリュームを、少しだけ上げるための魔法でした。
ザワワ……ザワワ……。
風が吹くと、何千、何万という草の葉が擦れ合い、巨大な一つの生き物のようにうねりました。
その音は、単なる摩擦音ではなくなりました。
それは、「私はここにいる」「生きている」「光が熱い」「土が甘い」という、無数の命の肯定的な叫び(コーラス)として、アルベルトの耳に届きました。
「……すごいな。ただの草だと思っていたが、これは、生命の奔流だ」
アルベルトは、立ち尽くしました。
名もない雑草の一本一本が、王城の尖塔と同じくらいの尊厳を持って、大地に根を張り、宇宙に向かって手を伸ばしている。
その圧倒的な「生命の熱量」に、彼は気圧されました。
「兄様も、埋もれちゃえばいいんだよ。そうしたらね、自分がどこから始まって、どこで終わるのか、わからなくなっちゃうから」
シャルロッテの手招きに応じ、アルベルトは、躊躇いながらも、草の上に寝転がってみました。
チクリとする草の感触。
ムッとするような、青臭い土の匂い。
視界の端を、小さな甲虫が這っていきます。
仰向けになると、空は高く、自分を覆う草の穂先が、空に文字を書いているように揺れています。
「……ああ。私は今、王子ではないな……ただの一人の人間だ……そして、自然と一体となっている……」
アルベルトは、眼鏡を外しました。
背中から伝わる大地の鼓動と、自分の心臓の音が、シンクロしていくのがわかりました。
自分もまた、この草と同じ、炭素と水と光でできた、世界の一部に過ぎない。
その事実は、ちっぽけで虚しいことではなく、とてつもなく「大きくて、安心できること」でした。
「ね? 私たちはね、みんな、おんなじ空気とお日様を吸って生きている、兄弟なんだよ」
シャルロッテは、寝転んだまま、隣の草の茎を指で弾きました。
ピン、という小さな音が、風に乗って遠くへ飛んでいきました。
モフモフも、お腹を出して寝転がり、太陽に向かって手足をバタつかせています。彼は、野生の獣として、最初からこの「全一」の感覚を知っていたのかもしれません。
アルベルトは、植物図鑑を足許に放り出しました。
分類や名前は、後でいい。今はただ、この圧倒的な緑の匂いを吸い込み、自分が世界という名のスープに溶け込んでいる感覚を味わえばいい。
「……シャル。君の言う通りだ。これは、神様のハンカチだ。僕の疲れも、迷いも、全部吸い取ってくれる」
その日の午後、王国の第一王子は、草まみれになりながら、ただ流れる雲を見つめて過ごしました。
特別なことは何も起きませんでしたが、そこには「生きていることへの、底抜けの賛美」が、風と共に吹き渡っていたのでした。




