第五百八十七話「駿足の伝令兵と、姫殿下の『寄り道大作戦』」
その日の午後、王城の庭園には、一本の長いリボンがゴールテープとして張られていました。
王国の若き伝令兵、ラピードが、その俊足を披露することになったのです。彼は、「風よりも速い」と自負する、脚力自慢の青年でした。
「姫殿下。ハンデとして、私は庭園を三周してからゴールします。姫殿下は、まっすぐゴールへ向かってください」
ラピードは、自信満々に準備運動をしています。
対するシャルロッテは、モフモフを抱き、スタートラインでのんびりと靴の紐を結び直していました(実際には、エマに結んでもらっていました)。
「うん、わかったよ。ラピードお兄さん、転ばないでね」
フリードリヒ王子の号令と共に、競走が始まりました。
ラピードは、矢のように飛び出しました。その速さは、見ている騎士たちがどよめくほどです。
一方、シャルロッテは、トテ、トテ、と歩き出しました。
ラピードは、瞬く間に庭園を一周し、二周目に入りました。
彼は横目でシャルロッテの位置を確認しようとしました。まだスタート地点の近くにいるはずだ、と。
しかし、シャルロッテの姿は、コース上のどこにもありませんでした。
「……えっ? まさか、魔法で転移したのか!?」
ラピードは焦りました。速さだけが取り柄の彼にとって、負けることは許されません。
彼はスピードを上げ、三周目を走り終え、ゴール手前で立ち止まりました。
ゴールには、まだ誰もいません。
「はぁ、はぁ……。勝ったか? いや、姫殿下はどこだ?」
心配になったラピードは、コースを逆走してシャルロッテを探し始めました。
すると、コースから大きく外れた、生垣の裏側で、シャルロッテとモフモフがしゃがみ込んでいるのを見つけました。
「ひ、姫殿下! 何をされているのですか! 競走中ですよ!」
シャルロッテは、ラピードを見て、人差し指を唇に当てました。
「しーっ。静かにね。今、アリさんの引越し行列が通っているの」
地面を見ると、小さなアリたちが、パン屑を運んで長い列を作っていました。
シャルロッテは、その行列を眺めながら、実況中継をしていたのです。
「見て、あの大きいパンを持ってる子が隊長さんだよ。頑張れー!」
ラピードは力が抜けました。
「そんな……。私は、あんなに必死に走っていたのに、姫殿下はアリを……」
「だって、走っていたら、こんなに面白いものなのに、見逃しちゃうよ? そんなのもったいないし、可愛くないよね!」
シャルロッテは、ラピードの手を引いて、座らせました。
「お兄さんも、座って。アリさんの目線になるとね、この草むらが、大きなジャングルに見えるんだよ」
ラピードは、渋々しゃがみ込みました。
息を切らして走っていた時には気づきませんでしたが、地面に近い視点で見ると、庭園は全く別の世界でした。
草の葉についた朝露が宝石のように光り、ダンゴムシが鎧の騎士のように歩いています。風が草を揺らす音が、サワサワと心地よく耳を撫でます。
「……きれいですね。毎日走っている場所なのに、こんな景色があったなんて」
ラピードの心臓の鼓動が、ゆっくりと落ち着いていきました。
「速く走らなければならない」という焦燥感が消え、代わりに、ただそこに座っていることの充実感が満ちてきました。
しばらくして、二人は(モフモフも入れて三人は)、アリの行列が見えなくなるまで見送りました。
「さあ、行こうか。ゴールしないと、フリードリヒ兄様が待ちくたびれちゃう」
二人は、並んで歩き出しました。
もう、競走ではありませんでした。
ラピードは、シャルロッテの歩幅に合わせて、ゆっくり、ゆっくりと歩きました。
ゴールテープの前で待っていたフリードリヒ王子は、二人が手を繋いで、ニコニコしながら歩いてくるのを見て、首を傾げました。
「……勝負は、どうなったんだ?」
ラピードは、清々しい顔で報告しました。
「引き分けです、殿下。私たちは、もっと素敵な『寄り道』という勝利を見つけましたから」
シャルロッテは、ポケットから、道中で摘んだシロツメクサの花を出し、ラピードに渡しました。
「はい、一等賞のメダルだよ!」
その日の午後、庭園の競走は、勝者のいない、しかし誰もが豊かな気持ちになれる「お散歩」として幕を閉じました。
速く着くことよりも、道のりを楽しむことのほうが、ずっと「お得」なのだと、王国の最速の男は知ったのでした。




