第五百八十五話「白きリネンの海と、姫殿下の『雲の上の洗濯乙女』」
その日の午後、王城の北側にあるリネン室は、窓から差し込む斜光の中で、静寂とラベンダーの香りに満ちていました。
そこには、洗い立てのシーツやテーブルクロスが山のように積まれ、専属メイドのエマが一人、その白き山と格闘していました。
エマは、ため息をつくことはありませんでしたが、その背中には「終わらない仕事」に対する、ほんの少しの諦めと疲労が滲んでいました。何百枚もの布を畳み、分類し、棚に収める作業は、孤独で果てしない旅のように思えたからです。
そこへ、シャルロッテがモフモフを抱いて、つむじ風のように現れました。
「まあ、エマ! なんてこと! あなたは今、世界で一番ロマンチックな場所にいるのね!」
シャルロッテは、部屋の入り口で立ち止まり、大げさに両手を広げて感嘆の声を上げました。
エマは目を丸くして、自分の周りのただの洗濯物の山を見回しました。
「ロマンチック……でございますか? ここはただのリネン室ですが」
「いいえ、違うわ、わが魂の友よ! よく見て。これは洗濯物じゃないわ。ここは『白き雲の宮殿』で、あなたは雲を管理する『天空の乙女』なのよ!」
シャルロッテは、積み上げられたシーツの山にダイブしました。
ふわっ、と洗剤と太陽の匂いが舞い上がります。
「見て、モフモフ。ここは雲の上だよ。下界の悩みなんて、何も届かない場所なの」
モフモフも「ミィ!」と鳴いて、シーツの山を掘り始め、白い布のトンネルを作って遊び始めました。
そこへ、イザベラ王女とマリアンネ王女が、シャルロッテを探してやってきました。
「シャル? こんな埃っぽいところで何をしているの?」
「騒がしいわね。静電気の発生源になっているわよ」
しかし、シャルロッテは二人の姉の手を引いて、部屋の中に招き入れました。
「お姉様たち、ちょうどよかったわ! 今、この『雲の宮殿』では、古代の女神たちが集う秘密の儀式が始まるところなの!」
シャルロッテは、大きなレースのテーブルクロスを一枚手に取り、それをイザベラ王女の肩にかけました。
そして、カーテンのタッセルで、即席の帯を結びました。
「見て! イザベラお姉様は、ギリシャ神話の女神様のようだわ。このドレープ(ひだ)の美しさと言ったら! 『美の女神』そのものよ!」
イザベラは、最初は戸惑っていましたが、鏡に映る自分の姿――白い布を纏っただけの姿――が、意外にも神々しく見えることに気づき、まんざらでもなさそうに微笑みました。
「……そうね。飾らない白こそが、真の美を引き立てるのかもしれないわ。悪くない遊びね」
次にシャルロッテは、マリアンネ王女に、硬く糊付けされたナプキンを頭に乗せました。
「マリアンネお姉様は、『知恵の神官』よ。その四角い帽子は、世界の真理が詰まった本なの!」
マリアンネは苦笑しましたが、眼鏡の位置を直し、厳かに頷きました。
「ふふ。なるほど、洗濯物というカオスから、秩序を生み出す神官というわけね。合理的だわ」
そして、シャルロッテは、エマに向き直りました。
エマは、王女たちの「ごっこ遊び」に恐縮して、部屋の隅に縮こまっていました。
「そして、エマ! あなたこそが、この宮殿の主役、『白き雲の女王』よ!」
「と、とんでもございません姫殿下! 私はただのメイドで……」
「ううん。だって、この美しい雲を、毎日こんなに綺麗に整えているのは誰? 破れたところを、魔法みたいに綺麗に繕ってくれるのは誰? エマの指先には、愛という名前の魔法が宿っているのよ」
シャルロッテは、一番肌触りの良いシルクのシーツを、エマの頭からヴェールのように被せました。
夕日が差し込み、エマの栗色の髪と白いヴェールを黄金色に染め上げました。
「……きれい」
イザベラが、素直に呟きました。
「ええ。労働の尊さが、彼女を輝かせているわ」
マリアンネも同意しました。
エマの頬が、夕焼けよりも赤く染まりました。
単調で、終わりのないと思っていた仕事が、姫殿下の言葉一つで、誇り高い「女王の務め」に変わったのです。
「さあ、みんなで畳みましょう! これは家事じゃないわ。『雲を四角く切り取って、夢の缶詰を作る作業』なの!」
四人の「女神たち」は、笑い合いながらシーツを畳み始めました。
パンッ! と布を張る音が、音楽のように響きます。
二人一組でシーツの端を持ち合い、近づいたり離れたりする動作は、まるで舞踏会のダンスのようでした。
モフモフは、畳み終わった「夢の缶詰」の上で、王様のように踏ん反り返っていました。
「あはは! モフモフったら、一番偉そう!」
作業が終わる頃には、部屋の中は綺麗に片付き、窓の外には一番星が光っていました。
エマは、棚に整然と並んだリネンを見て、今まで感じたことのない充実感を覚えました。
「姫殿下。今日は、魔法のような午後でした。このシーツで眠る方々は、きっと今夜、素敵な夢をご覧になるでしょう」
「ええ、間違いなくね! だって、ここには私たちの笑い声が織り込まれているんだもの」
シャルロッテは、エマの手をギュッと握りました。
荒れた手でしたが、それはシャルロッテにとって、どんな宝石よりも価値のある、大好きな「腹心の友」の手でした。
その日の夜、王城のベッドは、いつもより少しだけふかふかで、ラベンダーと、乙女たちの空想の香りがしました。
退屈な家事は、想像力の翼を持てば、いつだって素敵な冒険に変わるのです。




