第五百八十三話「泥だらけの実験室と、姫殿下の『土のソムリエ』」
その日の午後、王城の華やかな表庭とは対照的に、裏手の目立たない一角にある「育苗場」は、戦場のような様相を呈していました。
そこは、庭師長ハンスが、新種の植物を育てたり、弱った苗を治療したりするための、いわば「植物の病院」兼「秘密基地」でした。
ハンスは、地面に這いつくばり、お尻を高く突き出して、土の塊を睨みつけていました。彼のエプロンは泥だらけで、爪の間まで真っ黒です。
彼が相手にしているのは、隣国から取り寄せた気難しい植物、「歌うリンドウ」の球根でした。
「ううむ……。腐葉土が多すぎたか? いや、水はけが良すぎると根が乾く。しかし湿りすぎると根腐れを起こす。ううむ、お前は一体、何を求めているのだ……!」
ハンスは、恋人の機嫌を伺う若者のように、球根に向かってブツブツと問いかけていました。園芸家という生き物は、植物のためなら王様への挨拶よりも、天気の変化や土の湿り気の方を最優先の重大事と捉える生き物なのです。
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そこへ、シャルロッテがモフモフを連れて、長靴を履いてやってきました。
彼女は、ハンスの必死な背中を見て、クスクスと笑いました。
「ハンスさん。地面とお話ししてるの?」
ハンスは、泥だらけの顔を上げ、片眼鏡の位置を直しました。
「おお、これは姫殿下。お見苦しいところをお見せしてしまいました。……ええ、話をしているのですが、このリンドウ君はなかなかの頑固者でして。土の好みがうるさいのです」
シャルロッテは、しゃがみ込み、ハンスが混ぜ合わせている土の山を見ました。
黒土、赤玉土、腐葉土、砂。それらが複雑な比率で配合されています。
「ねえ、ハンスさん。土って、いろいろな味がするんだよね?」
「味……ですか? まあ、比喩的に言えばそうですな。酸っぱい土、甘い土、重たい土、軽い土……」
シャルロッテは、手袋を外して、素手で土の山に触れました。
冷たくて、湿っていて、命の匂いがする黒い塊。
「私、わかるよ。このリンドウさんはね、『ふかふかのベッド』じゃなくて、『ちょっとゴツゴツした、冒険できるベッド』が欲しいんだって!」
シャルロッテは、土属性魔法をごく微量、指先に纏わせました。それは、土を操る魔法ではなく、土の粒子の「気持ち」を感じ取るための、繊細なセンサーのような魔法でした。
「見て。こっちの土はね、優しすぎて栄養過多で、リンドウさんが怠けちゃうの。もっと、根っこを伸ばしたくなるような、小石混じりの土がいいのよ」
シャルロッテは、庭の隅にあった川砂利をひとつかみ、ハンスの配合土に混ぜ込みました。
園芸の常識からすれば、「荒っぽい」処置です。しかし、ハンスは姫殿下の直感を信じました。植物の本質は、過保護にされることではなく、自らの力で根を張ることにあると、彼もまた知っていたからです。
二人は並んで、泥んこ遊びをする子供のように、土を混ぜ合わせました。
混ぜて、握って、崩して、匂いを嗅ぐ。
それは、汚れることを厭わない者だけが知る、至福の時間でした。
「なるほどいい感じですな。適度な空気と、水と、そして厳しさがある。これなら、リンドウ君もやる気を出すでしょう」
ハンスは、新しい土のベッドに球根を植え、掌で優しくトントンと叩きました。
「さあ、おやすみ。次は青い顔を見せておくれよ」と囁きながら。
◆
作業を終えた二人の手は、泥だらけでした。
しかし、シャルロッテは自分の手を誇らしげに見つめました。
「ねえ、モフモフ。私の手、茶色い手袋をしてるみたいだね」
「ミィ~(土いじりの勲章だな~)」
通りかかったメイドが、泥だらけの姫様を見て悲鳴を上げそうになりましたが、シャルロッテの輝くような笑顔を見て、かろうじて言葉を飲み込みました。
数日後。
育苗場の片隅で、土が小さく盛り上がり、鮮やかな青い芽が顔を出しました。
それは、魔法で一瞬にして咲かせた花よりも、ずっと小さく、地味なものでした。けれど、ハンスとシャルロッテにとっては、どんな宝石よりも価値のある「命の応答」でした。
「咲いたね、ハンスさん」
「ええ。私たちの声が、届いたようですな」
カレル・チャペックが言ったように、庭仕事とは、未来への忍耐強い手紙のようなものです。
シャルロッテは、泥のついた指先で新芽に触れながら、土の中で起きている静かで力強い奇跡を、全身で味わっていたのでした。




