第五百八十二話「熱狂の球根市と、姫殿下の『一瞬の開花宣言』」
その日の午後、王都の中央広場は、異常な熱気に包まれていました。
東方の国から持ち込まれた新種の花、「虹色チューリップ」の球根が、信じられない高値で取引されていたのです。
たった一個の、泥のついた玉ねぎのような球根に、金貨の袋が飛び交い、貴族も商人も、目を血走らせて競り合っていました。
視察に来ていたアルベルト王子は、その光景を見て頭を抱えました。
「これは異常だ。実体のない期待値だけで価格が高騰している。この『泡』が弾けたら、国の経済が混乱するぞ……」
広場の中心では、恰幅の良い商人が、一個の球根を掲げて叫んでいました。
「さあ、見てください! この縞模様! これは、咲けば『永遠の富』を約束する幻の花! 今の値は金貨五百枚! 他にいませんか!」
人々は、球根を「花」としてではなく、「金を生む道具」として見ていました。
球根は、重い期待と欲望の視線に晒され、どこか縮こまっているように見えました。
◆
そこに、シャルロッテがモフモフを連れて、人混みをかき分けてやってきました。
彼女は、台の上に置かれた、数億円の価値がある(とされる)球根をじっと見つめました。
「ねえ、アルベルト兄様。この球根さん、息が苦しそうだよ」
アルベルトは小声で答えました。
「シャル。あれは今、世界で一番高価な植物だ。触れてはいけないよ」
「ううん。違うよ、兄様」
シャルロッテは、商人の制止も聞かずに、球根に近づきました。
彼女の目には、球根の中に眠る花の精霊が、「お金の話はもうたくさん! 早くお日様の下に出たい!」と、殻を叩いているのが見えていたのです。
「この子はね、金庫にしまわれるために生まれたんじゃないの。今すぐ、みんなに『綺麗だね』って言われたいの!」
シャルロッテは、球根にそっと手を触れました。
そして、土属性(※成長促進)、水属性、光属性、さらに時間魔法を一気に融合させました。
それは、投資家たちが最も恐れる魔法でした。なぜなら、花は咲いてしまえば、もはや「転売」できないからです。
「さあ咲いて! 虹色ちゃん!」
ボウッ!
シャルロッテの手の中で、球根が急速に芽吹きました。
緑の茎がぐんぐん伸び、葉が広がり、そして――。
パッ!
広場の一同が見守る中、大輪の花が咲き誇りました。
それは、赤、白、紫が複雑なマーブル模様を描く、息を呑むほど美しいチューリップでした。
しかし、商人は悲鳴を上げました。
「ああっ! 咲いてしまった! これではもう、球根として売れない! 価値がゼロになってしまった!」
市場の熱狂は、一瞬にして冷え込みました。
金貨五百枚の資産価値は、ただの「一輪の花」という、ありふれた現実に変わってしまったのです。これが、物理的なバブル崩壊でした。
◆
静まり返る広場の中で、シャルロッテだけが、花の香りを胸いっぱいに吸い込み、嬉しそうに笑っていました。
「見て、モフモフ! すっごくいい匂い! 箱の中で腐るより、今ここで咲くほうが、ずっと幸せそうだよね?」
モフモフも、花びらに鼻を近づけ、「ミィ~(確かにいい匂いだ~)」と同意しました。
その時、群衆の中から、小さな女の子の声がしました。
「……きれい」
その声を皮切りに、殺気立っていた大人たちの顔から、憑き物が落ちていきました。
彼らは、目の前の花が「金」ではなくなった瞬間に、ようやくそれが「美しい植物」であることに気づいたのです。
アルベルト王子は、眼鏡を外し、ふぅと息を吐きました。
「……恐れ入った。シャルは、経済の泡を弾けさせ、その中から『美の実体』を取り出したのか」
商人は、へなへなと座り込みましたが、咲き誇る花を見て、どこか安堵したような表情を浮かべました。
「……確かに。金庫に入れるには、惜しい美しさですな」
シャルロッテは、その花を摘み取ることはせず、魔法で植木鉢を作り、そこに定着させました。
「ねえ、みなさん。このお花はね、売るものじゃなくて、みんなで見るものだよ。そうすれば、タダで、みんなが優雅な気分になれるでしょ? そっちの方が絶対可愛いよ!」
その日の午後、市場は取引を停止し、即席の「お花見会場」となりました。
人々は、損をしたことも忘れて、幻の花を眺めながら、茶を飲み、笑い合いました。
シャルロッテの無邪気な「暴落」は、欲望にまみれた市場を、最も健全で、美しい広場へと戻したのでした。




