第五百八十一話「壁一面の恋人たちと、姫殿下の『終わらない抱擁のオペラ』」
王城の地下、リネン室の奥にある、もう何年も使われていない「灰色の倉庫」。
そこは、本来なら埃とカビの臭いがするだけの場所でした。
しかし、ある日、迷い猫(※モフモフのお友達)を追いかけてその部屋に入ったシャルロッテは、むせ返るような花の香りと、目がくらむような色彩の洪水に襲われました。
灰色の石壁は、もうどこにも見えませんでした。
壁、床、天井に至るまで、びっしりと「絵」が描かれていたのです。
描かれているのは、豪華なドレスを着た貴婦人と、軍服を着た王子様が、熱烈に抱き合っている姿。
その周りを、巨大な花々や、真珠の首飾り、リボンが埋め尽くし、隙間なく極彩色で塗り込められています。
絵の具は、正規のものではありません。潰した花びらの汁、焦がしたパンの粉、石鹸の泡、さらには歯磨き粉まで使って描かれた、執念の色彩でした。
その絵の作者は、部屋の隅で縮こまっていた、地味で無口な洗濯係の女性、エロイーズでした。彼女は普段、誰とも目を合わせず、ひっそりとシーツを洗っているだけの存在でした。
しかし、彼女の内面には、誰にも止められない「ロマンスの宇宙」が爆発していたのです。
彼女を見つけた執事のオスカーが、顔をしかめました。
「これは……なんということを。公共の壁を汚して……。それに、この絵の人物たち、どこか少々、狂気じみておる……」
確かに、彼女の描く恋人たちは見る人を不安にさせる異様さがありました。
エロイーズは、震えながら絵を隠そうとしました。
「申し訳ございません……。わたくしの中の愛が、溢れてしまって……止まらなかったのです……」
しかし、シャルロッテは、モフモフを抱いたまま、その壁画の前に仁王立ちしました。
彼女の瞳は、その絵の持つ「過剰な熱量」に共鳴して、キラキラと輝いていました。
「違うよ、オスカー。この人たちはね、愛に溢れてるんだよ」
シャルロッテは、壁に描かれた貴婦人の顔に、そっと触れました。
「この人たちは、愛する人のことしか見ていないから、世界中の愛が、目の中に映っちゃったんだよ! これは『愛の眩しさ』なの!」
シャルロッテは、この場所を「汚れ」ではなく、「劇場」だと宣言しました。
「エロイーズお姉さん。ここはね、世界で一番情熱的な『オペラハウス』だよ!」
シャルロッテは、光属性と音響魔法を融合させました。
彼女は、壁の絵に命を吹き込むのではなく、絵から溢れ出る「エロイーズの情熱」を、音楽として空中に響かせたのです。
ジャジャーン!
突然、部屋の中に、見えないオーケストラの演奏が高らかに鳴り響きました。
そして、壁に描かれた無数の恋人たちが、絵の中で揺らめき始めました。
シャルロッテは、歌い出しました(※即興のオペラ風に)。
「♪あぁ~、愛しいあなた~! 離さないで~! 世界が花に埋もれるまで~!」
すると、壁の絵の貴婦人たちも、口を動かさずに、心で歌い始めました。
部屋中に、愛の讃歌が充満します。
天井から描かれた花々が、本当に香りを放ち始め、押し寄せるようなバラと百合の匂いが、オスカーの鼻をくすぐりました。
エロイーズは、呆然と立ち尽くしていました。
自分の妄想だと思っていた世界が、姫殿下の魔法で、現実の祝祭になったのです。
「……私の愛が、歌っている……?」
「そうだよ! 愛はね、隠すものじゃないの。爆発させて、壁いっぱいに咲かせるものなの!」
シャルロッテは、モフモフの手を取って、エロイーズの周りをくるくると踊りました。
モフモフも、極彩色の空気に当てられたのか、いつもより情熱的にステップを踏んでいます。
オスカーは、最初は眉をひそめていましたが、その圧倒的な「愛の圧力」と、エロイーズの頬に差した紅色の生気を見て、ため息をつき、そして微笑みました。
「……やれやれ。壁の汚れにしては、あまりにも芸術的すぎますな。これは『清掃』ではなく『保存』が必要かもしれませんぬ」
その日の午後、灰色の倉庫は、誰にも邪魔されない「愛の聖域」として認められました。
エロイーズは、その後も洗濯の合間にこの部屋を訪れ、絵を描き続けました。彼女の描く恋人たちは、いつまでも瞳孔のない青い瞳で、互いだけを見つめ合い、永遠の抱擁を続けています。
シャルロッテにとって、その部屋は、王城で一番暑苦しくて、一番幸せな場所でした。
だってそこには、世界を埋め尽くすほどの「大好き」が、壁いっぱいに溢れていたのですから。




