第五百七十一話「蜜蠟の翼と、姫殿下の『お日様へのダイビング』」
その日の午後、王城で最も高い「風見の塔」の屋上には、一人の若き発明家、レオが立っていた。
彼の背中には、鳥の羽根を蜜蠟で固めて作った、巨大で美しい翼が装着されている。それは、人類の夢である「空を飛ぶこと」を実現するための、魔導と工学の結晶だった。
しかし、レオの足は震えていた。
彼は、古くから伝わるある神話を恐れていたのだ。
それは空を飛び、太陽に近づきすぎた者は、その熱で翼を溶かされ、海へと墜落するという戒めだった。
「……計算上は飛べる。だが、もし高く飛びすぎてしまったら? 太陽の怒りに触れ、私は地に落ちるのではないか……」
彼の心には、「成功への渇望」と「破滅への恐怖」がせめぎ合っていた。空はあまりに広く、そして太陽はあまりに眩しく、審判者のように彼を見下ろしている。
◆
そこへ、シャルロッテがモフモフを抱いて、階段を登ってきた。
彼女は、レオの背中の翼を見て、目をキラキラと輝かせた。
「わあ! レオお兄さん、鳥さんになるの?」
レオは、引きつった笑みを浮かべた。
「おお、これは姫殿下……。ええ、そのつもりです。ですが、空は怖い場所です。太陽は、無謀な者を灼き尽くしますから」
シャルロッテは、空を見上げた。
彼女の目には、太陽が「怒れる審判者」ではなく、「両手を広げて待っている、温かいお父さん」のように見えていた。
「ううん、違うよ。お日様はね、怒ったりしないよ。お兄さんが近づいてきてくれたら、嬉しくて、ギューッて抱きしめちゃうだけだよ」
シャルロッテは、レオの背中の翼に、そっと触れた。
そして、光属性と風属性の魔法を、翼のつなぎ目である「蜜蠟」に融合させた。
彼女は、蠟が溶けないように強化したのではない。
むしろ、溶けるその瞬間に、「最高の魔法」が発動するように仕掛けたのだ。
「ねえ、お兄さん。もし翼が溶けちゃっても、それは『失敗』じゃないよ。それはね、お日様と握手した証拠の、『光のダンス』の始まりなの!」
◆
レオは、姫殿下の不思議な言葉に背中を押され、意を決して塔の縁を蹴った。
風が彼を捉えた。翼が空気を掴む。
彼は飛んだ。
重力から解き放たれる感覚、風を切る音、眼下に広がる王都のパノラマ。恐怖は一瞬で歓喜へと変わった。
彼は、もっと高く、もっと遠くへと、太陽を目指して上昇していった。
しかし、やはり神話の通りだった。
高度が上がるにつれ、太陽の熱と、魔力の負荷に耐えきれず、翼を固定していた蜜蠟が溶け始めたのだ。
羽根が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。
「しまっ……! やはり、落ちるのか!」
レオが絶望に目を閉じた、その時だった。
シャルロッテの魔法が発動した。
溶け出した蜜蠟は、醜く垂れ下がるのではなく、空中で瞬時に気化し、無数の「金色のシャボン玉」へと変貌したのだ。
そして、剥がれ落ちた白い羽根は、風の魔法を受けて、きらきらと輝く「光の紙吹雪」となった。
レオの身体は、墜落するのではなく、光と泡の渦に包まれながら、ゆっくりと、優雅に降下を始めた。
それは、悲劇的な落下ではなく、空中で繰り広げられる、幻想的なパレードのようだった。
「こ、これは……?」
レオは目を開けた。
彼の周りでは、太陽の光を受けたシャボン玉が虹色に輝き、羽根が舞い踊っている。彼は、空から拒絶されたのではなく、空に祝福されて、地上へと送り届けられているようだった。
地上で見上げていた人々からも、歓声が上がった。
「見ろ! 天使が降りてくるぞ!」
「なんと美しい……!」
レオは、塔の庭園の芝生の上に、ふわりと着地した。
翼はなくなっていたが、彼の顔には、敗北感は微塵もなかった。彼は、太陽の熱さと、空の優しさを、その身で知ったのだから。
◆
シャルロッテが、塔から駆け下りてきた。モフモフも、落ちてきた羽根を口にくわえて走ってくる。
「お帰り、レオお兄さん! キラキラして、すっごく綺麗だったよ!」
レオは、芝生の上に座り込んだまま、空を見上げて笑った。
「ああ、姫殿下。太陽は、怖くありませんでした。とても温かくて……そして、翼が溶ける瞬間こそが、一番美しいなんて、思いもしませんでした」
シャルロッテは、モフモフから羽根を受け取り、レオの髪に挿した。
「えへへ。だって、ずっと飛んでいるよりも、最後はキラキラになって帰ってくるほうが、物語みたいで可愛いもん!」
その日の午後、王城の空には、しばらくの間、金色のシャボン玉が漂い続け、挑戦することの尊さと、終わることの美しさを、人々に伝えていたのだった。




