第五百七十話「蒼白の書記官と、姫殿下の『夜の王国への招待状』」
その頃、王城の使用人たちの間では、ある「怪談」がまことしやかに囁かれていました。
地下の古文書館には、日が沈んでからしか姿を現さない、死人のように青白い顔をした「夜の住人」がいる、と。
彼は日光を極端に嫌い、ニンニクの入った料理には決して手を付けず、鏡を見ることも避けているというのです。
「あれはきっと、古の吸血鬼の末裔に違いないわ」
「夜な夜な、古い書物のインクを吸って生きているのよ」
そんな噂の的になっていたのは、夜間専門の書記官、ヴラドでした。
実際の彼は、もちろん怪物などではありません。ただ、生まれつき肌が弱く日光に当たれない体質と、匂いや音に敏感すぎる繊細な神経を持った、内気な青年でした。
彼は、昼間の喧騒と眩しさが苦手で、静かな夜の書庫に引きこもる生活を選んだのです。
「……私は、太陽の下では生きられない。この暗闇こそが、私にお似合いなのだ」
ヴラドは、分厚いカーテンを閉ざした執務室で、蝋燭の微かな灯りを頼りに、古い羊皮紙の修復作業をしていました。
彼の心は、自分を「普通の世界から弾き出された異端者」だと感じ、深い孤独に沈んでいました。
◆
真夜中。
静まり返った書庫の扉が、キィ……と小さな音を立てて開きました。
ヴラドは、ビクリと肩を震わせました。
「だ、誰だ……? 今は閉館時間だぞ……」
現れたのは、白いネグリジェを着て、モフモフを抱いたシャルロッテ姫殿下でした。彼女は、眠れない夜の探検に来ていたのです。
「こんばんは。ヴラドお兄さん、まだ起きているの?」
シャルロッテは、暗闇の中でも目を輝かせていました。
ヴラドは慌ててフードを目深に被り、顔を隠そうとしました。
「なんとこれは姫殿下ではありませんか……。近づいてはいけません。私は、光の当たらない日陰者です。私の近くにいると、あなたのような輝く方まで、陰気になってしまいます」
しかし、シャルロッテは、彼の言葉を気にせず、テトテトと近づいてきました。
彼女は、ヴラドの作業机の上にある、修復中の古文書を見ました。
そこには、昼間の明るい光の下では見落としてしまうような、紙の繊維の微細なほつれまでが、完璧に修復されていました。
「すごい……。こんなに暗いのに、針の穴が見えるの?」
「……ええ。私の目は、光に弱い分、闇の中ではよく見えるのです。音も、匂いも、人より強く感じてしまう。だから、昼間は世界がうるさすぎて、生きていけないのです」
ヴラドは、自嘲気味に言いました。
それは、彼にとって「呪い」のような体質でした。
しかし、シャルロッテは、机に手をついて、ニカッと笑いました。
「それって、すごい才能だよ! お兄さんは、『夜の王様』なんだね!」
「よ、夜の王様……?」
「うん! だってお日様の下では見えないものが見えて、聞こえない音が聞こえるんでしょう? それはね、夜の世界を守るために、特別に選ばれた力なんだよ!」
シャルロッテは、ヴラドの手を取りました。彼の手は氷のように冷たかったのですが、シャルロッテは温かく握り返しました。
「ねえ、ヴラドお兄さん。私に、夜のお城を案内してくれない? お兄さんの目には、どんな風に見えているのか知りたいの!」
◆
ヴラドは戸惑いましたが、姫殿下の真っ直ぐな瞳に断りきれず、渋々ながら案内役を引き受けました。
二人は、静まり返った王城の廊下を歩き始めました。
ヴラドの案内は、驚くべきものでした。
「姫殿下、あそこの床板は踏まないでください。昼間は気づきませんが、微かに軋む音がします。静寂を壊してしまいますから」
「ここには月下美人の花の香りが流れてきています。今夜、咲いたようですね」
彼の感覚を通してみる夜の城は、恐ろしい場所ではなく、音と香りと影が繊細に織りなす、美しい芸術作品のようでした。
彼は、昼間の人々が気づかない「世界のささやき」を、すべて受け取っていたのです。
彼らは、最後に一番高い塔のバルコニーに出ました。
冷たい夜風が吹いていましたが、ヴラドにとっては、それが一番心地よい温度でした。
「……綺麗ですね」
ヴラドが、月を見上げて呟きました。
彼の青白い肌は、月光を浴びて、透き通るような神秘的な美しさを放っていました。
シャルロッテは思いました。彼は、太陽の下では弱々しく見えるかもしれないけれど、この夜の世界では、誰よりも凛として美しいのだと。
「ねえ、お兄さん。鏡が嫌いなんでしょう?」
「……ええ。鏡に映る自分は、幽霊のように血の気がないですから」
シャルロッテは、窓ガラスに映った二人の姿を指差しました。
「でも見て。今の二人、夜のダンスパーティーに来たみたいでお似合いだよ。お兄さんは、黒い夜の衣装が、一番似合う人なんだよ」
ヴラドは、ガラスに映る自分を見ました。
そこには、化け物ではなく、小さな姫君を優しくエスコートする、静かな青年の姿がありました。
「……そうか。私は、夜に生きることを、許されていたのですね」
彼の心の中にあった「普通になれない」という劣等感が、月光と共に溶けていくようでした。
彼は、吸血鬼ではありませんでしたが、確かに「夜の住人」として、誇りを持てるようになったのです。
シャルロッテは、あくびを一つしました。
「ふあぁ……。夜の世界、楽しかった。ありがとう、夜の王様」
「いいえ、こちらこそ姫殿下。……おやすみなさい。良い夢を」
ヴラドは、眠そうなシャルロッテを部屋まで送り届けました。
翌朝、使用人たちは、地下書庫の整理整頓がいつも以上に完璧で、そして書記官のヴラドが、少しだけ自信を持った顔で「おやすみなさい(※彼は朝に寝るので)」と挨拶するのを聞いたそうです。
それは、光の当たらない場所にこそ咲く花があることを知った、静かな夜の物語でした。




