第五百六十八話「小麦不足の厨房と、姫殿下の『甘い革命』」
その年の秋、エルデンベルク王国は、ちょっとした食糧にまつわるトラブルに見舞われていました。
長雨の影響で小麦の収穫が遅れ、さらに隣国からの輸送馬車が橋の故障で立ち往生してしまったのです。その結果、王城の厨房から、いつもの主食である「堅焼きパン」が消えてしまいました。
料理長のガストンは、空っぽの小麦粉袋を前に、頭を抱えていました。
「困った……。これでは、兵士や使用人たちのまかないパンが焼けない。備蓄庫にあるのは、傷みやすい卵と、大量のバター、それにドライフルーツくらいだ。これでは腹持ちの良い食事は作れんぞ」
城内には、「しばらくは節制だ」「我慢の時だ」という、暗く湿っぽい空気が漂い始めていました。
アルベルト王子も、しかめっ面で帳簿を睨み、「配給制限をかけるべきか……」と悩んでいました。
◆
そこへ、おやつの時間になってもパンが出てこないので、シャルロッテがモフモフを連れて厨房へやってきました。
ガストンは、申し訳なさそうに膝をつきました。
「姫殿下、申し訳ございません。今日はパンがご用意できないのです。小麦粉が底をつきかけておりまして……」
周りの大人たちも、「パンがないなら、ひもじい思いをするしかない」という顔をしていました。
しかし、シャルロッテはキョトンとして、棚に並んでいる他の食材――卵、牛乳、バター、蜂蜜――を指差しました。
「パンがないの?」
「はい、左様でございます」
「じゃあ、お菓子を食べればいいじゃない!」
厨房が一瞬、凍りつきました。
その言葉は、あまりにも現状を知らない、無邪気で残酷な王族の戯言に聞こえたからです。
若いコックの一人が、思わず「姫様は、現場の苦労をご存知ないから……」とつぶやきそうになりました。
けれど、シャルロッテは、さらに言葉を続けました。
「だって、見て! 卵もバターも、こんなにいっぱいあるよ? これを使わないで腐らせちゃうほうが、もったいないよ!」
彼女は、ガストンのエプロンを引っ張りました。
「いつものパンが焼けないなら、卵とバターをたっぷり使った『ブリオッシュ』や『ケーキ』を焼けばいいの! 今日はね、『パンがないから我慢する日』じゃなくて、『パンがないから、特別にお菓子でお腹いっぱいになれる日』にするの!」
ハッ、とガストンは顔を上げました。
彼は「パン=小麦粉と水と塩で作る質素なもの」という固定観念に縛られていたのです。しかし、倉庫には、保存のきかないリッチな食材が余っていました。
非常時だからこそ、普段は贅沢品として少ししか使わないそれらを、大胆に放出するチャンスだったのです。
「……そうですな。姫殿下の仰る通りだ! ないものを嘆くより、あるもので最高のご馳走を作るのが、料理人の腕というもの!」
ガストンの目に、料理人の炎が宿りました。
「よし、野郎ども! 今日は『ブリオッシュ祭り』だ! バターを惜しむな! 卵を泡立てろ! 城中の人間を、甘い匂いで包み込んでやれ!」
◆
数時間後。
王城の大食堂には、いつもの堅いパンの代わりに、黄金色に焼き上がった山盛りのブリオッシュや、ドライフルーツたっぷりのパウンドケーキが並びました。
仕事に疲れた兵士やメイドたちは、その甘い香りと、ふわふわの食感に、顔を綻ばせました。
「うめぇ……! こんな贅沢、久しぶりだ」
「パンがないと聞いた時はどうなるかと思ったけど、俺はこっちの方がいいや!」
悲壮感はどこへやら、食堂は一転してパーティーのような賑わいになりました。
栄養価の高い卵とバターのおかげで、みんなの体力も気力も回復したようです。
アルベルト王子も、焼きたてのブリオッシュを頬張りながら、苦笑しました。
「……ピンチを贅沢な祭りに変えるとは。シャルロッテの『甘い革命』には、誰も敵わないな」
シャルロッテは、モフモフと一緒にケーキを食べながら、満足げに言いました。
「ね? 足りないものを数えるより、今ある美味しいものを探したほうが、絶対可愛いでしょ?」
歴史に残る(かもしれない)名言は、ここでは傲慢さの象徴ではなく、逆境を笑顔に変えるための、とびきり甘くて賢い魔法の言葉になったのでした。




