第五百六十四話「お堀の主と、姫殿下の『水の中の立ち話』」
その日の午後、王城を囲むお堀の周りには、ピリピリとした緊張感が漂っていました。
というのも、お堀の主である巨大な「鉄甲ワニ」のガブリエルが、水面からゴツゴツした頭だけを出し、鋭い眼光で城門の方を睨み続けていたからです。
見回りの兵士たちは、遠巻きにヒソヒソと話していました。
「おい、ガブリエルの機嫌が悪そうだぞ」
「獲物を狙っている目だ。近づくなよ、引きずり込まれるぞ」
水面に見えるのは、鋼鉄のような鱗に覆われた鼻先と、凶悪な目つきだけ。その姿は、まさしく水辺の捕食者、静かなる脅威そのものでした。
そこへ、シャルロッテがモフモフを連れて、おやつのパンの耳を持ってやってきました。
「あら? 兵隊さんたち、どうしたの?」
「ああ、姫殿下! 危険です! 今、ガブリエルが殺気立っておるのです!」
兵士が止めようとしましたが、シャルロッテは首を傾げました。
彼女には、ガブリエルが怒っているようには見えなかったのです。むしろ、どこか退屈そうで、ぼんやりしているように感じられました。
「うーん……。怒ってるのかなあ? ただ、休憩してるだけに見えるけど」
シャルロッテは、お堀の柵から身を乗り出しました。
彼女は前世の動物図鑑で見た、ある「ワニの秘密」を思い出していました。水面に浮かぶ恐ろしい姿の裏側で、彼らが水中でどんな格好をしているのかを。
「ねえ、モフモフ。ガブリエルさんの『足』がどうなってるか、見てみようよ」
シャルロッテは、水属性と光属性の魔法を、そっとお堀の水に溶け込ませました。
それは、水を一瞬だけ、空気のように透明にする魔法でした。
シュワッ……。
濁っていたお堀の水が透き通り、水面下の様子が露わになりました。
そこにいたのは、優雅に泳ぐ捕食者ではありませんでした。
ガブリエルは、お堀の底に、二本の後ろ足でしっかりと立ち、前足(手?)をだらりと下げて、まるでバス停でバスを待っているおじさんのような姿勢で、ボーッと立っていたのです。
水深が意外と浅かったため、泳ぐよりも立つほうが楽だったのでしょう。
「ぶふっ!」
それを見た兵士の一人が、思わず吹き出しました。
水面の上ではあんなにハードボイルドな顔をしているのに、水の中では、短足気味の足で一生懸命バランスを取りながら、なんとも気の抜けた立ち姿を晒しているのです。
しかも、よく見ると、隣にもう一匹、奥さんのワニもいて、彼女も同じように二本足で立ち、ガブリエルの肩に手を乗せていました。
それはまるで、夫婦で井戸端会議をしているかのような、生活感あふれる光景でした。
「あはは! やっぱり! 泳いでたんじゃなくて、立ってたんだね!」
シャルロッテが笑うと、ガブリエルはバツが悪そうに、ゆっくりと水中に沈んでいきました(というか、膝を曲げて座りました)。
恐怖の対象だった「お堀の主」のイメージは、一瞬にして崩れ去りました。
兵士たちの顔からも緊張が消え、なんとも言えない緩んだ空気が流れ始めました。
「なんだか……急に親近感が湧いてきましたな」
「ああ。俺たちも、警備の合間に立って休憩しているとき、あんな顔をしているかもしれん」
シャルロッテは、パンの耳を小さくちぎって、水面に投げました。
ガブリエルは、水中でよっこらしょと立ち上がり、パクッとそれを食べました。
「ね、兵隊さん。怖い顔をしててもね、見えないところでは、みんな力を抜いて休んでるんだよ。だから、そんなに怖がらなくていいの」
その日の午後、お堀の周りでは、時折、兵士たちの忍び笑いが聞こえるようになりました。
水面から出ている怖い顔を見ても、もう誰も震え上がったりはしません。みんな、その水の下にある、ちょっと間抜けで愛らしい「立ち姿」を想像して、温かい気持ちになっていたからです。




