第五百六十三話「樹皮の下の鼓動と、姫殿下の『森の聴診器』」
雪解け水が小川に流れ込み、王城の裏山が、冬の眠りから覚めようとしていた頃のことです。
まだ風は冷たく、木々の枝には葉一枚ついていませんでしたが、森の空気はどこか甘く、湿り気を帯びていました。
シャルロッテは、長靴を履いて、泥のぬかるみを避けながら森を歩いていました。
前を行くのは、庭師のハンスです。彼は時折立ち止まっては、太いメープルの木の幹に、そっと手を当てていました。
「ハンスさん、何をしているの?」
「ああ、これは姫殿下。わたくしは木脈の音を確かめているのです」
ハンスは、しわがれた手で木の肌を愛おしそうに撫でました。
「外見は枯れ木のように見えますが、今、この樹皮の下では、とてつもないことが起きているのですよ」
シャルロッテは、モフモフを抱き直して、首を傾げました。
彼女の目には、ただ静かに立っているだけの木にしか見えません。
「音? 木の音?」
「ええ。シャル様も、耳を当ててみてください。魔法を使わずとも、静かにしていれば聞こえます」
シャルロッテは、ハンスに言われた通り、自分の小さな耳を、ゴツゴツとしたカエデの幹にぺたりと押し付けました。
最初は、自分の髪が擦れる音しかしませんでした。
でも、息を止めて、じっと集中すると……。
ゴウ、ゴウ、サーッ……。
それは、風の音ではありませんでした。
木の幹の奥深く、硬い樹皮の内側を、大量の水が猛烈な勢いで駆け上がっていく音でした。
「わあ……! 流れてる! 川みたいに流れてるよ!」
シャルロッテは目を丸くして顔を上げました。
この太い幹の中を、根が吸い上げた大地の水が、空に向かって垂直に昇っているのです。ポンプも、機械仕掛けもないのに、重力に逆らって。
「春を迎えるために、木々は必死で枝先へ栄養を送っているのです。これが、森の鼓動でございます」
ハンスは、腰に下げていた小刀を取り出し、少し離れた若い枝の先を、ほんの少しだけ傷つけました。
すると、すぐにそこから、透明な雫がポタリ、ポタリと滴り落ちてきました。
「舐めてごらんなさい」
シャルロッテは、指先でその雫を受け止め、舌に乗せました。
冷たい水。
けれど、その奥に、ほんのりと、けれど確かな「甘み」がありました。
「……甘い。お砂糖水みたい」
「ええ。これが、ひと冬かけて木が蓄えた命の味です。煮詰めればシロップになりますが、このままの『森の味』こそ、一番の贅沢かもしれませんな」
モフモフも、落ちてくる雫を口を開けて受け止め、ペロペロと味わっています。「ミィ(うまい)」と満足そうです。
シャルロッテは、もう一度、木に耳を当てました。
さっきよりも、その音が力強く感じられました。
自分の周りに立っている何百本もの木々。そのすべての中で、今この瞬間も、何トンもの水が、空に向かって静かに、しかし激しく噴き上がっている。
静寂に見える森は、実は巨大な「水の工場」だったのです。
「すごいね、ハンスさん。森は、今お祭り騒ぎだったんだね」
「はい。私たちは、その賑やかな宴の、ほんのおこぼれを頂いているに過ぎません」
シャルロッテは、木から離れ、空を見上げました。
枝の先にある小さな芽が、下から送られてくる甘い水を飲んで、今にも弾けそうに膨らんでいました。
何か魔法で解決したわけではありません。
ただ、木に耳を当て、その生命の音を聴いただけ。
けれど、シャルロッテの体の中にも、森と同じような力が満ちてくるような気がしました。
「春が来るね、モフモフ」
二人は、泥んこになった長靴のまま、生命の音が響く森を、元気よく歩いて帰りました。
その日の午後のお茶は、砂糖の代わりに、ハンスが少しだけ分けてくれた「カエデの水」で淹れられました。それは、春の訪れを告げる、優しくて淡い味がしました。




