第五十六話「三女殿下の『紅茶の哲学』と、貴族の知られざる憂鬱」
その日の午後、王城の舞踏の間にあるサロンでは、エレオノーラ王妃主催の、ごく小規模な午後のティーパーティーが開かれていた。参加者は、王妃、シャルロッテ、そして、王妃の側近貴族数名だ。
話題は、最近の貴族間の流行や、芸術について。優雅な会話が交わされる中、給仕が、淹れたての紅茶を運んできた。その香りは、芳醇で甘く、部屋を満たした。
貴族の一人、伯爵夫人マティルダが、優雅にカップを手に取り、紅茶の香りを深く吸い込んだ。
「ああ、王妃様。このアールグレイの香りは、本当に心を落ち着かせますわ。午後のこの時間には、これ以上の慰めはありません」
別の貴族、男爵ルドルフが同意する。
「しかし、やはり紅茶は奥が深い。その日の気分、淹れ方、茶葉の産地……。知れば知るほど、自分の知識の浅さを痛感いたします」
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その時、シャルロッテが、ピンク色の可愛いティーカップを手に持ち、その香りを嗅ぎながら、そっと口を開いた。
「あのね、ルドルフ様。紅茶はね、浅くていいんだよ」
その言葉に、ルドルフ男爵だけでなく、王妃や他の貴族たちも、一瞬、会話を止めて、小さな王女に視線を向けた。
「浅い、とは……?」と、ルドルフ男爵が尋ねた。
シャルロッテは、その質問に、可愛らしい、しかし含蓄のある言葉で答えた。
「だってね、紅茶って、『今の気持ち』を写す鏡なんだよ。深く考えすぎると、お茶の味じゃなくて、自分の心の中の、難しいことばかり飲んじゃうもの」
彼女は、紅茶の表面を、小さな指で優しく撫でた。
「今、この紅茶が、温かくて、甘い香りがするなら、それでいいの。紅茶の美味しさは、誰かの知識じゃなくて、このカップの中にあるでしょう?」
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その言葉を聞いたルドルフ男爵は、顔色を変えた。彼が紅茶の知識を深めようと焦っていたのは、社交界で「知識の浅さ」を指摘されることへの恐れから来ていたのだ。彼は、紅茶を飲むという行為を通して、常に自己の評価という名の苦い毒を飲んでいたことに気づいた。
「殿下……私は、なんと……」
別の、いつも穏やかなマティルダ伯爵夫人が、急に目許を押さえた。
「私は、毎日、最高級の紅茶を淹れさせておりますのに、どこか満たされないのは、常に、この紅茶を飲んでいる『自分』が、人からどう見られているか、ばかりを気にしていたからかもしれません……」
彼女の紅茶への執着は、実は、社交界というプレッシャーの中で、自己の存在を確立したいという、切実な願いの表れだったのだ。
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エレオノーラ王妃は、娘の純粋な洞察力に、心の中で深く感銘を受けていた。
「シャルは、本当に、紅茶という優雅な飲み物の、最も優しい本質を理解しているわ」
シャルロッテは、貴族たちが心に抱える、繊細な憂鬱を察したが、彼らを責めることはしなかった。
「ね、ルドルフ様。マティルダ様。だからね、今度から、紅茶を飲むときは、『今日のわたし、可愛い!』って、心の中で唱えるの。そうしたら、紅茶が、もっともっと美味しくなるよ!」
シャルロッテの無邪気で、しかし深遠な「紅茶の哲学」は、貴族たちの心の凝りを、優しく解きほぐした。
ルドルフ男爵は、初めて心の底から穏やかな表情で、カップを飲み干した。
「殿下。私は、今日、この紅茶が本当に温かいことを知りました。感謝いたします」
小さな王女の言葉一つで、優雅な午後のティーパーティーは、深い癒やしと、心の解放の場となったのだった。