第五百五十八話「腹ペコの騎士と、姫殿下の『そっぽを向く魔法』」
その日の昼下がり、王城の大厨房は、かつてないほどのプレッシャーに晒されていました。
騎士団の演習を終えた第二王子フリードリヒが、泥だらけのまま、猛烈な空腹を抱えて厨房に仁王立ちしていたのです。
「まだか! 俺の腹は限界だ! 特製シチューはまだ煮えないのか!」
フリードリヒの背後には、同じく腹を空かせた騎士たちが数名、恨めしそうに並んでいます。
料理長のガストンは、額に汗を浮かべながら、巨大な寸胴鍋の前に張り付いていました。
「お、おかしいのです、殿下。薪は最高火力で燃やしているのですが、一向に沸騰する気配がありません。お湯は熱いのですが、泡一つ立たないのです」
フリードリヒは、鍋を睨みつけました。
「ええい、気合が足りんのだ! 俺が念を送ってやる! 煮えろ! 煮えろ!」
騎士たちも一緒になって、鍋に向かって「煮えろ!」と念じ始めました。
男たちの熱気と殺気にも似た期待が、鍋の一点に集中しています。
しかし、鍋の水面は鏡のように静まり返り、湯気さえ遠慮がちでした。
◆
そこに、シャルロッテがモフモフを抱いて、おやつの催促にやってきました。
彼女は、異様な光景――大の大人たちが鍋を囲んで睨みつけている――を見て、すぐに状況を理解しました。
「あーあ。兄様たち、鍋さんをいじめちゃダメだよ」
フリードリヒは振り返りました。
「シャル! いじめてなどいない、応援しているんだ! 早く煮えてくれと!」
シャルロッテは、やれやれと首を振りました。
「兄様。『見つめる鍋は煮立たない』って言うでしょ? 兄様たちの目が怖すぎて、お鍋の中の水の精霊さんが、緊張して縮こまっちゃってるんだよ」
「な、なんだと? 俺の視線が、物理的に沸点を上げているというのか!?」
「そうだよ。期待の重さで、泡が浮かび上がれないの。だからね、みんなで『そっぽ』を向かなきゃダメ!」
シャルロッテは、騎士たちに命令しました。
「はい、全員、回れ右! お鍋のことなんか、全然気にしてないよーって顔をして!」
フリードリヒと騎士たちは、半信半疑ながらも、シャルロッテに従い、鍋に背を向けました。
ガストン料理長も、鍋から離れ、壁の方を向きました。
厨房に、奇妙な時間が流れました。
屈強な男たちが、壁に向かって直立し、口笛を吹いたり(※ちなみに下手くそでした)、天井のシミを数えたりして、必死に「鍋に関心がない」演技をしています。
モフモフだけが、退屈そうに床でゴロゴロしていました。
シャルロッテは、鍋に小さな声で囁きました。
「ね、もう誰も見てないよ。今のうちに、ボコボコってしちゃいなよ」
すると。
コポッ。
静かだった水面から、小さな泡が一つ上がりました。
続いて、コポコポ、グツグツ……。
緊張の糸が切れたように、鍋の中身が一気に踊り始め、美味しそうな湯気が立ち上りました。
ボコボコボコボコ!
あっという間に、鍋は景気良く沸騰し、シチューの香りが厨房いっぱいに広がりました。
「……お、音が変わったぞ!」
フリードリヒが振り返ろうとすると、シャルロッテが制しました。
「まだダメ! 今見たら、また恥ずかしがって止まっちゃうよ。美味しい匂いがするまで、我慢、我慢!」
数分後。
完全に火が通り、野菜と肉が柔らかく煮込まれた頃合いを見計らって、シャルロッテは宣言しました。
「はい、解禁! お鍋さん、準備できたって!」
振り返ったフリードリヒたちの目の前には、完璧に煮込まれた、黄金色のシチューがありました。
「おおお! うまそうだ! シャル、お前は魔法使いか!」
「ううん。お鍋さんの気持ちがわかっただけだよ」
その日の昼食は、いつも以上に美味しく感じられました。
待たされた分だけの空腹と、「見ないふり」という共有された秘密の時間が、最高のスパイスになったからです。
フリードリヒは、シチューを頬張りながら、満足げに言いました。
「なるほど。果報は寝て待て、鍋は背中で待て、ということか。騎士道とは、待つ美学でもあるのだな」
シャルロッテは、自分の分のシチューを冷ましながら、にっこりと笑いました。
「うん! 焦らなくても、美味しい時間は、ちゃんと向こうからやってくるんだよ! だってその方が絶対可愛いもん!」




