第五百五十七話「碧(あお)い夜の庭と、姫殿下の『深き歌のギター』」
その夜、王城のバルコニーには、イザベラ王女が一人、欄干に身を預けて立っていました。
空には、ナイフで切り取ったような鋭い三日月がかかり、庭園は深い闇に沈んでいました。
イザベラは、ため息をつきました。
「夜は、すべての色を奪ってしまうわ。私の愛する深紅の薔薇も、鮮やかな緑の葉も、今はただの黒い影。美しさが眠ってしまうのは、なんと寂しいことかしら」
彼女にとって、色彩のない世界は、音楽のない舞踏会のように味気ないものでした。
◆
そこへ、シャルロッテがモフモフを抱いて、音もなく現れました。
彼女は、パジャマの上に「緑色のショール」を羽織っていました。
「お姉様。夜はね、黒くないよ。夜は、『深い緑』なんだよ」
シャルロッテは、闇に沈む庭園を指差しました。
彼女の目には、闇が単なる黒ではなく、オリーブの木陰のような、井戸の底のような、濃厚で湿った「緑」として映っていました。
「見てて。今から、夜の心臓を叩いてみるから」
シャルロッテは、風属性魔法と、ほんの少しの音響魔法を、指先に集めました。
彼女は、空気を弦のように弾きました。
ジャラーン……。
それは、どこか遠くで鳴る、乾いたギターの音色に似ていました。
風が、庭木の枝を揺らし、葉擦れの音が、情熱的なリズムを刻み始めました。
「緑、あなたが好きよ、緑。
風の枝、緑の髪。
お月様が、銀のスカートを広げて降りてくるよ」
シャルロッテが詩のような言葉を口ずさむと、庭園の景色が一変しました。
三日月の光が、シャルロッテの魔法で増幅され、庭園に降り注ぎました。
すると、黒く見えていた木々の葉が、冷たく、妖しい「銀緑色」に輝き出したのです。
眠っていた薔薇たちは、深紅ではなく、夜の血のような「濃い紫」を纏い、影の中で震えるように浮かび上がりました。
「まあ……! なんて神秘的なの」
イザベラは息を飲みました。
それは、昼間の健康的で明るい美しさとは違う、夜だけが持つ、切なく、そして激しい「魂の色彩」でした。
影が伸び、縮み、まるでジプシーの踊り子のように、庭園全体が躍動しています。
「風が泣いてるね。月が笑ってるね。
夜は、昼間よりも、ずっと深い歌を歌っているんだよ」
シャルロッテは、バルコニーの手すりを、指でトントンと叩き、リズムを取りました。
モフモフも、月を見上げて、遠吠えの代わりに、低く、長く、喉を鳴らしました。その音は、チェロの響きのように、夜の空気に溶け込んでいきました。
イザベラは、闇の中にこれほど豊かな色彩と、情熱が隠されていたことに感動しました。
彼女は、昼間の薔薇とは違う、「夜の薔薇」の美しさに魅了されました。
「そうね、シャル。夜は死んでいるのではないわ。情熱を内に秘めて、静かに燃えているのね」
イザベラは、シャルロッテの緑のショールを直してあげながら、月に向かって微笑みました。
「この『深き歌』は、誰にも邪魔されずに聴くのがふさわしいわ」
風のギターは、夜明けが近づくまで、静かに、しかし熱く、二人の姫君のために鳴り響いていました。
それは、言葉では説明できない、魂の奥底に触れるような、碧い夜の魔法でした。




