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【TS幼女転生王族スローライフ】姫殿下(三女)は今日も幸せ♪ ~ふわふわドレスと優しい家族に囲まれて★~  作者: 霧崎薫


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第五百五十三話「降り続く雨の忘却と、姫殿下の『名札の貼り付けごっこ』」

 その年の雨季は、いつになく長く、そして重かった。

 王城の窓という窓は、絶え間なく打ち付ける雨のせいで、水槽の底のように薄暗く、空気は湿った苔と古い記憶の匂いで満たされていた。

 雨が降り始めてから七日目の朝、奇妙な病が城内に蔓延し始めた。それは熱が出るわけでも、痛みを伴うわけでもない。「物の名前を忘れる」という、静かで恐ろしい疫病だった。


 最初は、些細なことだった。

 厨房のメイドが、鍋を指差して「あの、お湯を沸かす、銀色の丸いやつ」と言い淀んだ。

 執事のオスカーが、懐中時計を見つめ、「これは……時を刻む……なんだっけ?」と首を傾げた。

 忘却は、湿気と共に、家具の隙間や衣服のひだから染み込み、人々の頭の中から言葉を一つ、また一つと奪っていった。


 ルードヴィヒ国王でさえ、玉座に座りながら、自分が何のためにそこにいるのか、ふとわからなくなる瞬間があった。

 言葉を失うことは、世界との繋がりを失うことだった。城全体が、意味を失った物体の集積所になりつつあった。



 しかし、シャルロッテだけは、この事態を悲観していなかった。

 彼女は、モフモフを抱き、筆とインク壺、そして大量の羊皮紙の切れ端を持って、城中を練り歩き始めた。

 彼女の目には、名前を失った物たちが、「新しい名前をつけてもらうのを待っている、迷子の子供たち」に見えたのだ。


「大丈夫だよ。名前がなくなったら、私が書いて貼ってあげるんだから」


 シャルロッテは、手近なものから次々と「名札」を貼り付けていった。

 テーブルには「ごはんを食べる台」。

 椅子には「お尻を休める場所」。

 窓には「光が入ってくる穴」。


 彼女の命名は、辞書的な定義ではなく、その物が「どう愛されているか」という、生活の実感に基づいていた。

 廊下の柱には「かくれんぼの隠れ場所」、フリードリヒ王子の剣には「痛い棒」、マリアンネ王女の実験器具には「不思議なぐるぐる」と書かれた紙が、糊でべったりと貼られた。


 忘却に怯えていた人々は、その名札を見て、安堵の息をついた。

 元の名前は思い出せなくても、「それが何であるか」は理解できたからだ。シャルロッテの文字は、現実と意識を繋ぎ止める、唯一の(くさび)となった。



 雨は降り続き、忘却は深刻さを増した。

 人々は、自分の名前さえ忘れかけ、鏡の中の自分を他人行儀に見つめるようになった。


 シャルロッテは、父である国王の元へ行った。

 国王は、虚ろな目で窓の外の雨を見ていた。


「シャル……。余は、誰だったかな。この重たい冠は、何のためにあるのだったか」


 シャルロッテは、筆を墨汁にたっぷりと浸した。

 そして、王の額に、直接、大きく文字を書いたわけではないが、王の胸元に一枚の紙を貼り付けた。


 そこには、「みんなの大好きなパパ」と書かれていた。


「パパは、王様である前に、パパなんだよ。それだけ覚えていれば、大丈夫」


 国王は、その紙を見て、不覚にも涙ぐんだ。

 「王」という概念は消えても、「パパ」という温かい響きだけは、魂の奥底に残り続けていたからだ。


 シャルロッテは、モフモフの首輪にも、「世界一ふわふわな相棒」という札をつけた。

 自分自身のドレスの裾には、「シャルロッテ・とっても可愛い女の子」と書いた。


 城の中は、シャルロッテの筆跡で埋め尽くされた。

 それは、失われた記憶の代わりに、新しい愛の定義で世界を再構築する作業だった。



 そして、雨が降り始めてから十四日目の午後。

 突然、空が裂けるように晴れ渡った。

 雲間から強烈な陽光が差し込み、湿った空気を一瞬で黄金色に変えた。


 その時、不思議なことが起きた。

 空から、雨の代わりに、無数の黄色い蝶が降り注いできたのだ。

 蝶たちは、城の窓から入り込み、廊下を埋め尽くし、人々の肩や頭に止まった。


 蝶の羽ばたきが起こす微風が、人々の頭から「忘却の霧」を吹き飛ばした。

「ああ……そうだ、これは『鍋』だ!」

「私は『執事』だ!」

「ここは『エルデンベルク王国』だ!」


 記憶が、濁流のように戻ってきた。

 人々は歓声を上げ、抱き合った。世界は再び、名前を取り戻したのだ。


 しかし、シャルロッテが貼り付けた無数の名札は、そのまま残された。

 アルベルト王子は、自分の眼鏡に貼られた「賢くなるレンズ」という紙を見て、苦笑しながらも剥がそうとはしなかった。それは、正しい名称よりも、もっと本質的な真実を語っている気がしたからだ。


 シャルロッテは、黄色い蝶が舞う庭園で、モフモフと追いかけっこをしていた。

 彼女にとって、名前があろうとなかろうと、世界は最初から最後まで、驚きと愛に満ちた場所でしかなかった。


 その年の雨季のことは、長く語り継がれた。

 人々が言葉を失い、代わりに幼い姫君がくれた「愛のレッテル」だけで生きた、不思議で静かな日々のことを。

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