第五百五十三話「降り続く雨の忘却と、姫殿下の『名札の貼り付けごっこ』」
その年の雨季は、いつになく長く、そして重かった。
王城の窓という窓は、絶え間なく打ち付ける雨のせいで、水槽の底のように薄暗く、空気は湿った苔と古い記憶の匂いで満たされていた。
雨が降り始めてから七日目の朝、奇妙な病が城内に蔓延し始めた。それは熱が出るわけでも、痛みを伴うわけでもない。「物の名前を忘れる」という、静かで恐ろしい疫病だった。
最初は、些細なことだった。
厨房のメイドが、鍋を指差して「あの、お湯を沸かす、銀色の丸いやつ」と言い淀んだ。
執事のオスカーが、懐中時計を見つめ、「これは……時を刻む……なんだっけ?」と首を傾げた。
忘却は、湿気と共に、家具の隙間や衣服のひだから染み込み、人々の頭の中から言葉を一つ、また一つと奪っていった。
ルードヴィヒ国王でさえ、玉座に座りながら、自分が何のためにそこにいるのか、ふとわからなくなる瞬間があった。
言葉を失うことは、世界との繋がりを失うことだった。城全体が、意味を失った物体の集積所になりつつあった。
◆
しかし、シャルロッテだけは、この事態を悲観していなかった。
彼女は、モフモフを抱き、筆とインク壺、そして大量の羊皮紙の切れ端を持って、城中を練り歩き始めた。
彼女の目には、名前を失った物たちが、「新しい名前をつけてもらうのを待っている、迷子の子供たち」に見えたのだ。
「大丈夫だよ。名前がなくなったら、私が書いて貼ってあげるんだから」
シャルロッテは、手近なものから次々と「名札」を貼り付けていった。
テーブルには「ごはんを食べる台」。
椅子には「お尻を休める場所」。
窓には「光が入ってくる穴」。
彼女の命名は、辞書的な定義ではなく、その物が「どう愛されているか」という、生活の実感に基づいていた。
廊下の柱には「かくれんぼの隠れ場所」、フリードリヒ王子の剣には「痛い棒」、マリアンネ王女の実験器具には「不思議なぐるぐる」と書かれた紙が、糊でべったりと貼られた。
忘却に怯えていた人々は、その名札を見て、安堵の息をついた。
元の名前は思い出せなくても、「それが何であるか」は理解できたからだ。シャルロッテの文字は、現実と意識を繋ぎ止める、唯一の楔となった。
◆
雨は降り続き、忘却は深刻さを増した。
人々は、自分の名前さえ忘れかけ、鏡の中の自分を他人行儀に見つめるようになった。
シャルロッテは、父である国王の元へ行った。
国王は、虚ろな目で窓の外の雨を見ていた。
「シャル……。余は、誰だったかな。この重たい冠は、何のためにあるのだったか」
シャルロッテは、筆を墨汁にたっぷりと浸した。
そして、王の額に、直接、大きく文字を書いたわけではないが、王の胸元に一枚の紙を貼り付けた。
そこには、「みんなの大好きなパパ」と書かれていた。
「パパは、王様である前に、パパなんだよ。それだけ覚えていれば、大丈夫」
国王は、その紙を見て、不覚にも涙ぐんだ。
「王」という概念は消えても、「パパ」という温かい響きだけは、魂の奥底に残り続けていたからだ。
シャルロッテは、モフモフの首輪にも、「世界一ふわふわな相棒」という札をつけた。
自分自身のドレスの裾には、「シャルロッテ・とっても可愛い女の子」と書いた。
城の中は、シャルロッテの筆跡で埋め尽くされた。
それは、失われた記憶の代わりに、新しい愛の定義で世界を再構築する作業だった。
◆
そして、雨が降り始めてから十四日目の午後。
突然、空が裂けるように晴れ渡った。
雲間から強烈な陽光が差し込み、湿った空気を一瞬で黄金色に変えた。
その時、不思議なことが起きた。
空から、雨の代わりに、無数の黄色い蝶が降り注いできたのだ。
蝶たちは、城の窓から入り込み、廊下を埋め尽くし、人々の肩や頭に止まった。
蝶の羽ばたきが起こす微風が、人々の頭から「忘却の霧」を吹き飛ばした。
「ああ……そうだ、これは『鍋』だ!」
「私は『執事』だ!」
「ここは『エルデンベルク王国』だ!」
記憶が、濁流のように戻ってきた。
人々は歓声を上げ、抱き合った。世界は再び、名前を取り戻したのだ。
しかし、シャルロッテが貼り付けた無数の名札は、そのまま残された。
アルベルト王子は、自分の眼鏡に貼られた「賢くなるレンズ」という紙を見て、苦笑しながらも剥がそうとはしなかった。それは、正しい名称よりも、もっと本質的な真実を語っている気がしたからだ。
シャルロッテは、黄色い蝶が舞う庭園で、モフモフと追いかけっこをしていた。
彼女にとって、名前があろうとなかろうと、世界は最初から最後まで、驚きと愛に満ちた場所でしかなかった。
その年の雨季のことは、長く語り継がれた。
人々が言葉を失い、代わりに幼い姫君がくれた「愛のレッテル」だけで生きた、不思議で静かな日々のことを。




