第五百四十七話「新大陸の航海士と、姫殿下の『壊さない革命』」
その日の午後、王城のサロンは、海の向こうから帰還したばかりの冒険家、クリストフ提督の自慢話で持ちきりだった。
彼は、未開の航路を開拓した英雄として招かれており、日焼けした顔に白い歯を光らせ、自信満々に語っていた。
「不可能なことなどないのです! 誰もが無理だと言った航路も、私が最初に成し遂げた。やってしまえば、それは当たり前のことになるのです」
提督は、テーブルの上のゆで卵を一つ手に取り、王族たちに挑発的な視線を向けた。
「では、皆様。この卵を、何も支えを使わずに、テーブルの上に直立させてみてください。これは、私の発見した『常識を覆す知恵』の試金石です」
アルベルト王子が挑戦したが、卵はコロコロと転がるばかり。
フリードリヒ王子が気合で立てようとしたが、指を離せば倒れてしまう。
マリアンネ王女が重心計算を始めたが、形状の不規則性に匙を投げた。
「ふっふっふ。やはり無理ですか。では、私が『革命的な方法』をお見せしましょう」
クリストフ提督は、卵を振り上げ、テーブルに叩きつけようとした。
殻を少し割って平らにすれば、卵は立つ。それが彼の用意した正解だった。
「待って!!」
鋭い声が響いた。
シャルロッテが、モフモフを抱いて飛び出してきたのだ。彼女は、提督の手首を(モフモフの肉球で)押さえて止めた。
「提督おじさん! 卵さんが『痛い!』って言ってるよ!」
「これはこれは姫殿下。これはただのゆで卵です。それに、多少の犠牲(※殻の破壊)がなければ、新しい常識は生まれないのですよ」
提督は、大人の論理で諭そうとした。
しかし、シャルロッテは首を横に振った。彼女の目には、提督の「破壊を伴う革新」が、とても乱暴で、可愛くないものに見えたのだ。
「ううん。壊さなくても、立つよ。卵さんはね、一人じゃ立てないだけなの。誰かがちょっとだけ、手を貸してあげればいいんだよ」
シャルロッテは、テーブルにあったソルトシェイカー(塩入れ)を手に取った。
そして、テーブルの上に、サラサラと少量の塩を振った。
「これだよ」
彼女は、その小さな塩の山の上に、そっと卵を置いた。
そして、卵の周りの余分な塩を、フゥーッと優しく吹き飛ばした。
残ったのは、卵とテーブルの接点にある、ごくわずかな塩の粒だけ。
しかし、その目に見えないほどの小さな粒たちが支えとなり、卵は割れることもなく、堂々と、完璧なバランスで直立していた。
「ほら! 立ったよ!」
一同は、あっけにとられた。
卵は無傷だ。美しい楕円のフォルムを保ったまま、重力に逆らって立っている。
「こ、これは……塩の摩擦を利用したのか……?」
提督は、割らずに立てるという発想に、目を丸くした。
シャルロッテは、得意げに解説した。
「あのね、提督おじさん。新しいことをするのに、何か壊さなきゃいけないなんてこと、ないんだよ。周りの環境、つまりテーブルを、卵さんに合わせてちょっとだけ優しくしてあげる(=塩を敷く)。そうすれば、無理やり形を変えなくても、ちゃんと立てるの!」
それは、「破壊的イノベーション」に対する、「包容的イノベーション」の提示だった。
自分が変わる(割れる)のではなく、世界の方を少しだけ変えて(塩を置く)、共存するのだ。
クリストフ提督は、割ろうとしていた自分の手と、無傷で立っている卵を見比べた。
そして、豪快に笑い出した。
「ハッハッハ! 完敗だ! 私の方法は『征服』だったが、姫様の方法は『調和』だ。新大陸でも、私はこの『壊さない知恵』を使うべきだったかもしれん!」
提督は、シャルロッテに深々と敬礼した。
シャルロッテは、立った卵の頭を撫でてあげた。
「よかったね、卵さん。痛いことされなくて」
その日の午後、サロンのテーブルの上には、塩の粒に支えられた卵が、誇らしげに立ち続けていた。
それは、何かを犠牲にしなくても、知恵と優しさがあれば不可能が可能になるという、小さくて可愛い記念碑だった。




