第五百四十五話「定義の教室と、姫殿下の『言葉の積み木崩し』」
その日の午後、王城の学習室では、王立学院から招かれた論理学者、ルートヴィヒ博士による特別講義が行われていた。
博士は、黒板に「椅子」という文字を書き、厳格な顔でシャルロッテに向き直った。
「さて姫殿下。言葉には厳密な定義があります。この物体は『椅子』です。その定義は、『人が座るための、背もたれのある家具』です。それ以外の用途で使うことは、論理的な誤りであり、世界の秩序を乱す行為です」
ルートヴィヒ博士は、世界を言葉で固定しようとしていた。彼にとって、辞書こそが法であり、物の意味はたった一つしかなかった。
◆
シャルロッテは、モフモフを抱き、その「椅子」の前に立った。
彼女の目には、博士の言う「定義」が、窮屈な箱のように見えていた。
「ねえ、ルートヴィヒおじいさん。言葉って、そんなにカチコチなの?」
「もちろんです。定義が揺らげば、私たちは意思疎通ができなくなります」
シャルロッテは、ニヤリと笑った。
彼女は、椅子を横に倒した。
そして、その背もたれの隙間に、モフモフを潜り込ませた。
「見て! これはもう『椅子』じゃないよ。モフモフの『トンネル』だよ!」
「なっ……! 形は椅子ですが……」
「でも、今は座ってないよ? くぐって遊んでいるんだから、これは『トンネル』っていう名前になるの!」
シャルロッテは、「意味とは使用である」という哲学を、遊びの中で実践し始めた。
◆
彼女は次に、重厚な辞書を積み上げ、その上に板を渡した。
博士は叫んだ。
「姫様! それは『本』です! 知識を蓄えるものです!」
シャルロッテは、その板の上に、おやつのクッキーを並べた。
「ううん。今はね、これ、『お店屋さんのカウンター』だよ! いらっしゃいませ!」
さらに、彼女は博士が持っていた長い指示棒を借り受け、それをまたに挟んで跨った。
「これはもう『指示棒』じゃないよ! 空飛ぶ『魔女のほうき』なのでーす! ビューン!」
教室の中にある全ての物が、シャルロッテの遊びが変わるたびに、次々と新しい名前と意味を獲得していった。
椅子はトンネルになり、バリケードになり、電車になった。
本はカウンターになり、ドミノになり、階段になった。
◆
ルートヴィヒ博士は、混乱の極みにあった。
「あわわ……。定義が……概念が崩壊していく……! 世界が、言葉の檻から逃げ出していく!」
しかし、シャルロッテは楽しそうに、博士の手を引いた。
「おじいさん、怖くないよ。言葉はね、積み木みたいなものなの。崩しても、また新しい形に積めばいいんだよ」
シャルロッテは、倒れた椅子(※今は電車ごっこの車両)に、博士を座らせた。
「さあ、乗って! 次は『冒険の旅』に出発進行だよ!」
博士は、呆然としながらも、その「椅子だったもの」に座った。
すると、不思議なことに、それはただの家具ではなく、ワクワクする乗り物のように感じられた。
彼は悟った。物の意味を決めるのは、辞書ではなく、今、ここで、誰と、どう使うかという「文脈」なのだと。
「……なるほど。これが『言語ゲーム』……。定義は固定されたものではなく、遊びの中で流動するものなのですね」
博士は、震える手でほうきを持ち、シャルロッテの真似をして空を指した。
「では、これは……『未来を指し示す羅針盤』と呼びましょうか」
シャルロッテは、モフモフと一緒に拍手した。
「うん! その名前、すっごく可愛い!」
その日の午後、学習室は、辞書の定義から解放された、自由で創造的な「言葉の遊び場」となった。
シャルロッテの哲学は、堅苦しい言葉の世界を、「使う人の心が決める、自由なパズル」へと変えたのだった。




