第五百四十四話「楕円の軌道と、姫殿下の『天球の音楽会』」
その日の深夜、王城の尖塔にある観測室は、冷たい星の光と、インクの乾いた匂い、そして老天文学者ヨハネスの深いため息に満ちていました。
ヨハネスは、羊皮紙に描かれた複雑な星図を前に、コンパスを握りしめて苦悩していました。
「美しくない……。なぜ、星々は『完全な円』を描かないのだ。神が創りたもうた宇宙は、完璧な幾何学であるはずなのに、観測データは常に、わずかに歪んだ楕円を示す……」
彼は、惑星の軌道が「円」であるという古代からの信念と、現実のデータのズレに苦しんでいました。そのズレは、彼の耳には「宇宙の不協和音」として響いていたのです。
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そこへ、シャルロッテがモフモフを抱いて、夜食の差し入れ(※星の形をしたクッキー)を持って現れました。
「ヨハネスおじいさん、まだ起きてるの? ねえ、お星様たちが、おじいさんを呼んでるよ」
ヨハネスは、疲れた目でシャルロッテを見ました。
「おお、姫殿下。違います、星たちは私を嘲笑っているのです。ほら、この火星の動きを見てください。速くなったり遅くなったり、まるで酔っ払いの千鳥足です。こんなランダムな動きに、秩序などありません」
シャルロッテは、天球儀を覗き込みました。
彼女の目には、星々の動きが「酔っ払い」には見えませんでした。
「ううん、違うよ。星さんたちはね、踊っているんだよ」
シャルロッテは、クッキーを一枚かじり、モフモフの尻尾をつかんで、メトロノームのように左右に振りました。
「一定のリズムでカチ、カチって動くんじゃなくてね、グィーンって速くなったり、フワァーってゆっくりになったり。これって、『ブランコ』のリズムじゃない?」
彼女が言ったのは、ケプラーの法則(※惑星は太陽に近い時は速く、遠い時は遅く動く)そのものでした。
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シャルロッテは、そのリズムを証明するために、光属性と音響魔法を融合させました。
彼女は、空に浮かぶ惑星の軌道に、見えない「五線譜」と「弦」を張りました。
「見ててね。星さんが動くと、宇宙の弦が弾かれるんだよ!」
魔法が発動すると、観測室のドーム天井に、星々の軌跡が光のラインとして浮かび上がりました。
それは、真円ではなく、美しい楕円を描いていました。
そして、星が軌道上の「近地点(中心に近い場所)」を通過する瞬間、弦が強く弾かれ、キィーン! と高く鋭い音が響きました。
逆に、「遠地点(遠い場所)」を通過する時は、ヴォォォン……と低く長い音が響きます。
水星は、忙しなく高音を奏でるソプラノ。
木星は、重厚な低音を響かせるバス。
それらが重なり合い、単調な「円の和音」ではなく、テンポが揺らぎ、複雑に絡み合う「多声的な音楽」が生まれました。
「聞こえる? これが『天球の音楽』だよ!」
ヨハネスは、震える手でコンパスを落としました。
彼が「ノイズ」だと思っていた速度の変化は、実は、宇宙という巨大な楽器が奏でる、抑揚のあるメロディだったのです。
「なんと……。完全な円では、この『揺らぎのある美しさ』は生まれない。楕円だからこそ、星は歌うことができるのか……!」
ヨハネスの脳内で、数式が書き換わりました。
歪みは醜さではなく、ハーモニーを生むための必然的な構造だったのです。
シャルロッテは、音楽に合わせてモフモフの手を取り、くるくるとワルツを踊り始めました。
「楽しいね! 宇宙は、すっごく大きなダンスホールだったんだね!」
モフモフも、「ミィミィ(悪くないリズムだ)」と鳴いて、ステップを踏みました。
ヨハネスは、涙を流しながら、新しい星図を描き始めました。それはもう、無理やり円に当てはめたものではなく、堂々とした楕円が描く、流麗な宇宙の設計図でした。
その夜、天文塔には、誰にも聞こえないはずの、しかし確かに魂を震わせる「宇宙の交響曲」が降り注いでいました。
シャルロッテの純粋な感性は、冷たい天文学の中に、音楽という温かい魂を見出したのでした。




