第五百四十三話「強面の軍用犬と、姫殿下の『くしゃみの仲直り合図』」
その日の午後、王城の騎士訓練場は、ピリピリとした緊迫感に包まれていました。
柵の中では、第二王子フリードリヒが、新しく配属された巨大な軍用犬「ガルム」と対峙していたのです。
ガルムは、狼の血を引く漆黒の巨獣で、鋭い牙を剥き出しにし、低い唸り声を上げていました。
フリードリヒもまた、汗だくになりながら身構えています。
「グルルルル……!」
「来い! 俺が相手だ! 力でねじ伏せてやる!」
ガルムが飛びかかりました。フリードリヒはそれを受け止め、地面を転がりながら組み合います。
端から見れば、それは命がけの死闘でした。ガルムは鼻に皺を寄せ、恐ろしい顔でフリードリヒの腕を甘噛みし、激しく鼻息を荒げています。
見守る騎士たちは、剣の柄に手をかけていました。
「危険だ! あの犬は凶暴すぎる!」
「殿下が噛み殺されるぞ!」
その時です。
激しい攻防の最中、ガルムが突然、妙な音を出しました。
フンッ! (くしゅん!)
それは、短く、鋭い「くしゃみ」でした。
フリードリヒは一瞬動きを止めました。
「ん? 風邪か? ……いや、油断させる気か!」
再び取っ組み合いが始まります。
しかし、ガルムはまたしても、唸り声の合間に「フンッ!(くしゅん!)」とくしゃみを挟みます。
そこへ、シャルロッテがモフモフを連れてやってきました。
彼女は、殺伐とした空気を全く気にせず、柵に近づきました。
「ねえ、フリードリヒ兄様。ガルムちゃん、すっごく楽しそうだね!」
フリードリヒは、犬の首を抱え込みながら叫びました。
「楽しそうだと!? シャル、見ろ、この獰猛な顔を! こいつは俺を食おうとしているんだぞ! しかもさっきから、俺を馬鹿にするように鼻を鳴らしやがって!」
シャルロッテは、首を横に振りました。
「違うよ、兄様。その『くしゃみ』はね、犬語で『ごめんね、冗談だよ!』っていう合図なんだよ」
「……は?」
フリードリヒの手が緩みました。ガルムも、動きを止め、ハァハァと舌を出しました。
シャルロッテは、得意げに解説しました。
「犬さんや狼さんはね、激しく遊ぶ時、相手を怖がらせないように、わざと『くしゃみ』をするの。『今のは演技だよ、本気で怒ってるんじゃないよ、楽しい遊びだよ』って、伝えているんだって!」
騎士たちは顔を見合わせました。
「あ、遊び……?」
「あの殺人マシーンのような形相で……?」
シャルロッテは続けました。
「だからガルムちゃんは、兄様が大好きで、全力でじゃれあっているだけなの。兄様が強くて壊れないから、安心して甘えているんだよ!」
フリードリヒは、目の前の巨犬を見つめ直しました。
ガルムは、フリードリヒと目が合うと、また「フンッ!(くしゅん!)」とくしゃみをして、尻尾をブンブンと振りました。
その目は、「次はどうする? もっとやる?」と、ワクワク輝いています。
「……そうか。お前、俺に気を使っていたのか」
フリードリヒは、力が抜け、その場に大の字に寝転がりました。
すると、ガルムは嬉しそうにフリードリヒの顔をベロベロと舐め回し始めました。
もはや、凶暴な魔獣の面影はありません。ただの巨大な甘えん坊です。
「わはは! やめろ、くすぐったい! 参った、俺の負けだ!」
最強の騎士が、犬に顔を舐められて降参している姿に、周囲の騎士たちも緊張を解き、ドッと笑いに包まれました。
シャルロッテは、モフモフを見ました。
「モフモフも、くしゃみする?」
「ミィ~(僕はしない~)」
モフモフは、自分より大きな犬が甘えているのを見て、少しだけ呆れたように、しかし優しく見守っていました。
その日の訓練は、いつの間にか「巨大犬とのふれあい広場」になっていました。
強面同士の喧嘩に見えたものは、実は、種族を超えた「最高に礼儀正しいじゃれ合い」だったのです。
フリードリヒは、泥だらけになりながら、満足げにシャルロッテに言いました。
「言葉が通じなくても、『くしゃみ』一つで心が通じるとはな。動物の世界も、案外、紳士的だ」
シャルロッテは、兄の膝でくつろぐガルムを撫でながら、にっこりと笑いました。
「うん! 『大好き』の伝え方は、いっぱいあるんだね! いっぱいあったほうが可愛いから絶対そっちのほうがいいよね!」




