第五十四話「執事の完璧なネクタイと、孫娘の『結び目』の真理」
その日の朝、王城の執務室の裏では、執事オスカー・フォン・ヴァイスが、鏡の前で、自分のネクタイを締める作業に、最大限の集中力をもって取り組んでいた。彼の銀髪と口髭は完璧に整っているが、彼の目だけは、ネクタイの「結び目の完璧な形」を追求することに燃えていた。
オスカーにとって、ネクタイの結び目は、執事としての、そして元騎士としての誇りと、日々の規律を象徴するものだった。結び目一つが、その日の彼の仕事の質を決定すると信じている。
「いかん。わずかに右側が甘い。これでは、今日の王子のスケジュール管理に緩みが生じる」
彼は、ネクタイを解き、再び締め直す。三度目の挑戦で、ようやく完璧な三角形を描く結び目が完成した。彼は、小さく頷き、胸ポケットに白いハンカチを折りたたんで入れた。
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その時、シャルロッテが、モフモフを抱いて、彼の後ろからそっと顔を出した。
「オスカー、何してるの? ネクタイと、お話してるの?」
「おや、殿下。これは失礼いたしました。ネクタイは、紳士の魂でございます。これを完璧にすることで、今日の職務に臨む覚悟を決めているのでございます」
シャルロッテは、オスカーのネクタイをじっと見つめた。その結び目は、確かに美しい。しかし、彼女の視線は、ネクタイそのものの美しさではなく、オスカーの指の動きに向けられていた。
「ねえ、オスカー。ネクタイって、どうして結ぶの?」
「それは、殿下。シャツの襟を美しく見せ、紳士の品格を示すためでございます」
「うーん……違うよ」
シャルロッテは、そっとオスカーのネクタイの結び目に、小さな指を触れた。
「ネクタイはね、オスカーが、大切な人に『行ってきます』と『ただいま』を言うための、お守りなんだよ」
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シャルロッテは、そっと、ネクタイの結び目にごく微細な、愛情の光を込めた。
「ね、オスカー。結び目があるのは、お仕事に行く時も、結び目がある場所……家族……に戻ってくるって、約束してるからだよね? だからほどけないように、ぎゅーって結んでるの」
オスカーは、その言葉に、胸を打たれた。彼は、毎日ネクタイを完璧に締めることで、自身のプロ意識を保っていたが、その根底には、妻と娘、そして王族という大切な家族の元へ、無事に帰るという、不器用な誓いがあった。その真理を、この小さな王女は、いとも簡単に看破したのだ。
「殿下……それは、私が長年、言語化できなかった美学の核心でございます」
オスカーは、目頭が熱くなるのを感じた。
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その日、オスカーのネクタイの結び目は、完璧な形を保っていたが、それに加え、誰にも見えない、温かい虹色の光を放っていた。それは、彼のプロ意識と、家族への愛という、二つの誇りが結びついた、最上級の「お守り」だった。
昼過ぎ、オスカーは、ネクタイの結び目に触れ、一瞬、温かい光を感じた。彼は、アルベルト王子との重要事項の打ち合わせで、普段以上の、洒脱で的確な判断を下すことができた。
その晩、オスカーは、ネクタイを緩めるとき、決して乱暴にはしなかった。彼は、その結び目に感謝の念を抱き、大切に引き出しにしまった。
「ネクタイは、約束か……」
彼の不器用な美学に、シャルロッテの純粋な愛が加わり、オスカーの仕事の誇りは、一層深くなったのだった。