第五百四十二話「歌う氷の湖と、姫殿下の『地球の鼓動の演奏会』」
厳冬の朝、エルデンベルク王国の空気は、ガラスのように冷たく澄み渡っていました。
王城の裏手にある「きらめく、慰めの湖」は、分厚い氷に覆われ、白銀の平原へと姿を変えていました。
その静寂を破るように、奇妙な音が湖の方角から響いてきました。
ヒュン! ピュン、ピュゥゥゥ……。
ゴォォォン……。
それは、まるで巨大な弦楽器を弾いたような、あるいは未知の生き物が鳴いているような、高く、そして低く響く不思議な音色でした。
宮廷楽師のフェリクスは、その音を聞いて首を傾げていました。
「はて……。誰かが新しい楽器を試しているのでしょうか。しかし、この音色は、金属でも木材でもない。もっと硬質で、広がりがあるような……」
そこに、シャルロッテがモフモフを連れて、厚手のコートを着込んでやってきました。
「フェリクスお兄さん。あれはね、湖さんが歌っているんだよ」
「湖が、歌うのですか?」
「うん! とっても素敵な『冬のコンサート』だよ。一緒に聴きに行こう!」
二人は、雪を踏みしめて湖畔へと向かいました。
湖の前に立つと、その音はより鮮明に、ダイナミックに響いてきました。
カィィーン……! バォン!
氷の下を走る亀裂や、温度変化による氷の膨張と収縮が、広大な氷の板を振動板にして、独特の反響音を生み出しているのです。
それは、人間の手では決して再現できない、地球そのものが奏でる環境音楽でした。
シャルロッテは、湖畔の岩に腰掛け、目を閉じました。
「静かにね。耳だけじゃなくて、体で聴くの」
フェリクスも倣って目を閉じました。
視覚を遮断すると、音が色彩を帯びて迫ってきます。
高い「ピュン」という音は、空を切り裂く青い光のように。
低い「ゴォォン」という音は、水底から湧き上がる深い紺色の波動のように。
それは無秩序なようでいて、風の強さや太陽の熱のリズムに合わせた、壮大な即興演奏でした。
「……素晴らしい。これは、氷の緊張と解放の音ですね」
フェリクスは、楽師としての魂を揺さぶられました。
彼が普段扱う楽譜には、「小節」や「拍子」という決まりがありますが、この自然の音楽には、始まりも終わりもありません。ただ、惑星の営みがあるだけです。
シャルロッテは、さらに深く音を感じるために、恐る恐る氷の上に腹ばいになりました。
モフモフも真似をして、氷の上にペタリと張り付きます。
「お兄さん、こうするとね、氷の下のお水の音も聞こえるよ」
フェリクスも、王城での立場を忘れ、氷の上に耳をつけました。
冷たさが頬を刺しますが、その向こうから、もっと微細な、氷の下を流れる水のせせらぎや、気泡が弾ける音が伝わってきました。
上からは風の音、氷の鳴く音。
下からは水の音、生命の予感。
彼らは、巨大な氷の膜を挟んで、二つの世界の音楽の間に挟まれていたのです。
「……世界は、こんなにもお喋りだったのですね」
フェリクスが呟くと、シャルロッテは嬉しそうに頷きました。
「うん。冬は静かに見えるけど、本当は一番大きな声で歌っている季節なんだよ。春を呼ぶために、一生懸命、氷を割っているんだもの」
バーン! と、遠くで氷が大きく割れる音がしました。
それは、春へのファンファーレのように、力強く響き渡りました。
二人は、体が芯まで冷えるまで、その天然のコンサートを楽しみました。
何かを作ったり、直したりする必要はありませんでした。
ただ、そこにある自然の営みに耳を傾け、その圧倒的なスケールと美しさに身を委ねること。
それこそが、何よりの贅沢な時間だったのです。
城に戻った後、フェリクスは新しい曲を作りました。
それは、楽器をほとんど使わず、長い沈黙と、突発的な高い音だけで構成された、不思議で美しい曲でした。
題名は、『氷の歌と、銀の姫』。
シャルロッテは、温かいココアを飲みながら、その曲を聴いて、「湖さんの声にそっくりだね」と笑いました。




