第五百四十話「曇りガラスのキャンバスと、姫殿下の『ピカピカの風景画』」
その日は、朝から空が低く垂れ込め、王城全体が薄暗い灰色の光に包まれていました。
少し憂鬱な気分になりそうなこんな日こそ、王城では「窓拭きの日」と決められていました。
長い回廊には、バケツと雑巾を持ったメイドたちが並び、何百枚もある巨大な窓ガラスを一枚一枚、丁寧に拭いて回っています。
シャルロッテは、自分の背丈でも届く低い位置の窓ガラスの前に陣取っていました。
彼女は、小さなエプロンをつけ、手にはマイ雑巾を持っています。もちろん、モフモフも一緒です(ただし彼は雑巾の代わりに、自分のお腹の毛で窓を拭こうとして、シャルロッテに止められていました)。
「よし。ここを拭いたら、外の世界も新品になるよ」
シャルロッテは、湿らせた雑巾でガラスを拭きました。
ザラザラとした埃の感触が消え、ガラスの表面が濡れて光ります。
次に、乾いた布で、キュッ、キュッ、と念入りに磨き上げます。
すると、それまで薄く霞んで見えていた庭園の木々が、突然、鮮明な輪郭を持って目に飛び込んできました。
葉の緑、幹の茶色、そして遠くの空の色。
まるで、世界の解像度が一気に上がったかのようです。
「わあ……。窓を磨くと、まるでお目々が良くなったみたい」
シャルロッテは、その単純な変化に感動しました。
世界が変わったわけではない。ただ、世界を見るための「フィルター」を綺麗にしただけ。それだけで、いつもの景色がこんなにも輝いて見えるのです。
楽しくなってきたシャルロッテは、次の窓へ移りました。
今度は、ガラスに「ハーッ」と息を吹きかけてみました。
白い曇りが広がり、一瞬だけ外の景色を隠します。
彼女は、その白いキャンバスに、指先でニコニコマークを描きました。
キュッ。
指が通ったところだけ、外の景色が覗きます。
「見て、モフモフ。お庭が笑ってるよ」
モフモフも真似をして、鼻息でガラスを曇らせ、肉球スタンプを押しました。
その時、窓の向こう側に、巡回中のフリードリヒ王子が通りかかりました。
彼は、窓に浮かぶニコニコマークと肉球を見て、足を止めました。
ガラス越しに目が合います。
音は聞こえません。
シャルロッテは、ガラスに両手の手のひらをぺたりとつけました。
フリードリヒも、苦笑しながら、自分の大きな手のひらを、ガラスの向こう側から合わせました。
冷たいガラス一枚を隔てて、兄の手の大きさと温かさを想像します。
フリードリヒは、口を大きく動かして、何かを言いました。
そのくちびるの動きは「キ・レ・イ・ニ・ナ・ッ・タ・ナ」と読めます。
シャルロッテは、満面の笑みで頷き、雑巾を振って見せました。
兄は親指を立てて、また巡回に戻っていきました。
ただそれだけのやり取りですが、言葉を交わすよりもずっと、心が通じ合った気がしました。
作業が進むにつれ、薄暗かった回廊に、少しずつ外の光が入り込んできました。
まだ空は曇っているのに、部屋の中は明るく感じられます。
埃で遮られていた微かな光も、磨かれたガラスを通してなら、十分に部屋を照らすことができるのです。
すべての窓を拭き終える頃には、シャルロッテの額にはうっすらと汗が滲んでいました。
彼女は、ピカピカになった窓の桟に腰掛け、達成感に浸りながら冷たい水を飲みました。
「ふぅ。気持ちいい~」
隣では、一生懸命手伝った(つもりになっている)モフモフが、窓ガラスに映る自分自身の姿に見とれていました。
通りかかったメイド長が、輝く窓を見て目を細めました。
「まあ、姫殿下。素晴らしい輝きです。これで、明日の朝日が入るのが楽しみですね」
「うん! 明日はきっと、お日様も喜んで入ってきてくれるよ」
特別な魔法も冒険もありませんでしたが、綺麗になった窓ガラスを通して見る世界は、昨日よりも少しだけ優しく、美しく見えました。
シャルロッテは、自分の手で世界を明るくしたことに満足して、透明なガラスの向こうの曇り空を、愛おしそうに見上げました。




