第五百三十九話「終わらない鬼ごっこ、姫殿下の『無限の寸止め』」
その日の午後、王城の長い回廊は、第二王子フリードリヒの豪快な笑い声に満ちていました。
彼は、新しいブーツの性能を試すため、そして何より可愛い妹を捕獲するため、猛烈なスピードで廊下を疾走していました。
「待てーい、シャル! 俺の脚力から逃げられると思うなよ! 捕まえたら、モフモフの刑だ!」
廊下の向こう側では、シャルロッテがモフモフを抱いて逃げて……いませんでした。
彼女は、回廊の突き当たりでピタリと足を止め、仁王立ちして兄を待ち構えていました。
「ふふん。フリードリヒ兄様。兄様は、アキレスさんみたいに速いけど、ここには永遠にたどり着けないよ!」
シャルロッテは、自分の足元の床に、チョークで一本の線を引きました。
そして、空間魔法と数理魔法を融合させ、回廊の空間そのものに「無限分割」のルールを適用しました。
「さあ、いらっしゃい! でもね、私に触るためには、必ず『残りの距離の半分』を進まなきゃいけないんだよ!」
フリードリヒは、そんな理屈などお構いなしに突進しました。
あと10メートル。5メートル。
彼の速度なら、一瞬でゼロになるはずの距離です。
しかし。
あと2メートル。
あと1メートル。
あと50センチ……。
フリードリヒの体感速度は変わらないのに、なぜかシャルロッテとの距離が縮まらなくなりました。
彼の足が前に出るたびに、空間が密になり、時間は引き伸ばされ、風景がスローモーションのように粘り気を帯びていきます。
「な、なんだ!? 足は動いているのに、進まない!? シャルが遠ざかっているのか!?」
フリードリヒは焦りましたが、シャルロッテは一歩も動いていません。
ただ、残りの距離が「半分、そのまた半分、さらにその半分……」と無限に分割され続けているため、理論上、永久に到達できないのです。
あと10センチ。
あと5センチ。
あと1ミリ……。
フリードリヒの指先は、シャルロッテの鼻先まで、あと紙一枚のところまで迫りました。
しかし、そこで世界は「永遠の寸止め」状態に入りました。
フリードリヒは、その極限状態で、奇妙な感覚に襲われました。
動きが限りなく停止に近づいたことで、普段は見逃してしまうような「微細な情報」が、奔流のように目に飛び込んできたのです。
シャルロッテの睫毛の一本一本が、陽光を受けてきらきらと輝いていること。
モフモフの毛先が、微かな風に揺れて、複雑なウェーブを描いていること。
そして、妹の瞳の中に、自分の必死な顔が映り込み、それが楽しそうに笑っていること。
触れる直前の、永遠に続く一瞬。
そこには、触れてしまっては消えてしまう「期待」と「憧れ」が、真空パックされたように保存されていました。
「……すごい。シャル。俺は今、お前の可愛さを、無限の時間を使って味わっている気分だ」
フリードリヒは、動かない口で(つまり心の中で)呟きました。
目的を達成することだけが喜びではない。目標に向かって手を伸ばし続けている、その「過程」こそが、最も熱く、密度が高いのだと。
シャルロッテは、凍りついたような兄の目の前で、にっこりと笑いました。
「ね、兄様。届きそうで届かない時が、一番ドキドキするでしょう?」
シャルロッテは、パチンと指を鳴らしました。
魔法が解除されます。
無限に分割されていた空間が、一気に収束しました。
ドスンッ!!
溜め込まれていた運動エネルギーが開放され、フリードリヒは勢い余ってシャルロッテ(とモフモフ)に激突……する直前で、優しく抱きとめました。
「うわっとっと! ……つ、捕まえたあぁぁ!」
フリードリヒは、妹とモフモフをまとめて、力一杯、ぐりぐりと抱きしめました。
その感触は、永遠の焦らしを経た後だっただけに、普段の百倍も柔らかく、愛おしく感じられました。
「あはは! 兄様、くすぐったいよ!」
回廊には、二人の笑い声が響き渡りました。
見回りに来たアルベルト王子が、床に転がってじゃれ合う二人を見て、眼鏡を直しながら言いました。
「……ふむ。無限分割をスキンシップのスパイスにするとは。全く、非論理的だが、幸福な応用例だ」
その日の午後、フリードリヒは「捕まえることの喜び」よりも、「捕まえる直前の輝き」を知る、少しだけ哲学的な騎士になったのでした。




