第五百三十六話「檻の中の黒い影と、姫殿下の『静寂の詩』」
その日の午後、王城の北側にある王立動物園は、冬の初めの冷たく澄んだ空気に包まれていました。
そこには、遠い南の国から贈られた、一頭の黒豹が飼われていました。
黒豹は、狭い鉄格子の檻の中で、しなやかな足音を忍ばせ、ぐるぐると円を描いて歩き続けていました。
その目は鋭く、全身の筋肉は鋼のように張り詰めています。
見回りに来た第二王子フリードリヒは、その様子を見て眉をひそめました。
「凶暴な獣だ。いつ飛びかかってくるかわからん。檻を二重にしておくべきだな」
飼育係も頷きました。
「はい。この豹は、来てから一度も心を開きません。常に怒りを溜め込んでいるようです」
彼らにとって、豹の絶え間ない歩行は、「破壊衝動」や「野生の怒り」の表れに見えました。
そこに、シャルロッテがモフモフを抱いてやってきました。
彼女は、兄や飼育係の言葉を聞き流し、檻のすぐ前まで歩み寄りました。
「……シャル、危ないぞ」
「しーっ。兄様、静かにして」
シャルロッテは、鉄格子の前に立ち尽くしました。
彼女は、魔法を使いませんでした。
ただ、じっと、豹を見つめました。
豹が右へ行き、ターンして、左へ戻る。
その動きは、あまりにも滑らかで、あまりにも正確なリズムを刻んでいました。
シャルロッテの瞳は、豹の動きを追うのをやめ、豹の「中心」を見つめ始めました。
彼女の意識が、鉄格子をすり抜け、黒い毛皮の奥深くへと沈んでいきます。
そこで彼女が見たのは、「怒り」ではありませんでした。
「……違うよ、兄様。この子はね、怒ってるんじゃないの」
シャルロッテは、夢を見ているような声で呟きました。
「この子はね、自分の体の中に、『大きな夜』を飼っているの」
黒豹の絶え間ない歩み。
それは、行き場のないエネルギーが暴走しているのではなく、強大すぎる力が、意志の力によって「小さな円」の中に凝縮されている姿でした。
千の森を駆け抜けるはずだった力が、今、この狭い空間で、高密度のダンスとなって回転しているのです。
「見て。あの足取りは、柔らかい靴下を履いているみたい。まわる、まわる。世界の中心を、ぐるぐると回っているの」
シャルロッテの言葉が、詩のように響きました。
鉄格子は、もはや「閉じ込める壁」ではありませんでした。
それは、豹の圧倒的な存在感を切り取るための「額縁」でした。
黒豹が、ふと足を止めました。
そして、黄金色の瞳で、シャルロッテを見つめ返しました。
その瞳の中には、獲物を狙う殺気はなく、ただ「深い井戸」のような静寂がありました。
外の世界の景色が、その瞳の中に入り込み、音もなく吸い込まれて、心臓の奥底で消えていくようでした。
「……そうか。お前は、寂しいんじゃなくて、誰よりも深い場所にいるんだね」
シャルロッテは、モフモフの手を握り、豹に向かって、ゆっくりと瞬きをしました。
豹もまた、ゆっくりと瞬きを返しました。
それは、言葉も魔法も超えた、魂と魂の、一瞬の接触でした。
フリードリヒは、剣の柄から手を離していました。
彼にはもう、目の前の獣が「猛獣」には見えませんでした。そこには、王族のような気高さを持って、運命を受け入れている「孤高の王」がいました。
「……美しいな。俺は、こいつの表面的な動きしか見ていなかった」
シャルロッテは、檻の前から離れました。
彼女は、何かを与えたわけでも、解決したわけでもありません。
ただ、その存在を「あるがまま」に見つめ、その尊厳を言葉にしただけです。
しかし、その場に残された空気は、以前のような刺々しいものではなく、静謐で、厳かなものに変わっていました。
「おやすみ、夜の王様」
シャルロッテが去った後も、黒豹は歩き続けました。
しかしその歩調は、どこかリズムを持った、静かな舞踏のように見えたといいます。
檻の中には、閉じ込められた獣ではなく、広大な宇宙を内包した「黒い神秘」が、ただ静かに息づいていました。




