第五百三十二話「硝子の模型と、姫殿下の『見えない王国の建築』」
その日の午後、王城の最上階にある「地図と模型の部屋」は、塵一つない静寂と、乾燥したインクの匂いに満ちていた。
部屋の中央には、エルデンベルク王国の首都を精巧に縮小した、巨大なジオラマが置かれている。それは、宮廷地図製作者のメルカトルが、生涯をかけて制作している「完璧な写し鏡」としての都市だった。
メルカトルは、ピンセットを手に、模型の路地の一つに、米粒ほどの街灯を設置しようとしていた。彼の指先は震えず、その瞳は測量技師の厳密さを湛えている。
「この模型には、王国のすべてが含まれていなければならない。石畳の数、屋根の瓦の枚数、煙突の煤に至るまで」
彼は、重力と物質によって構成された、重厚で確かな現実を愛していた。
◆
そこへ、シャルロッテがモフモフを抱いて、音もなく入ってきた。
彼女は、メルカトルの作業を邪魔することなく、模型の都市の縁に顎を乗せて、じっと小さな街並みを眺めた。
「ねえ、メルカトルおじいさん。この街は、とっても綺麗で、とっても重たそうだね」
メルカトルは手を止め、眼鏡の奥から姫を見た。
「重たい、とは? これはバルサ材と紙で作られておりますゆえ、重量はさほど……」
「ううん。物理的な重さじゃなくてね、決まっていることの重さだよ」
シャルロッテの目には、その精巧すぎる模型が、過去と現在を縛り付ける「確定した事実の牢獄」のように見えたのだ。そこには、風が吹く余地も、迷子が迷う隙間もなかった。
「私はね、この街の上に、もう一つの見えない街を建てたいな」
◆
シャルロッテは、立ち上がり、模型の都市の上空――つまり、何もない空間――に、両手をかざした。
彼女は、光属性と風属性の魔法を、極めて薄く、蜘蛛の糸のように繊細に紡ぎ出した。
「見て、おじいさん。ここにはね、『雲の糸で吊り下げられた街』があるの」
シャルロッテの指先が空中で踊ると、何もないはずの空間に、微かな光の屈折でできた、蜃気楼のような建築物が浮かび上がった。
それは、地上の重力に縛られない街だった。
家々は梯子やロープで結ばれ、屋根は逆さまになり、道は空へと螺旋を描いている。そこは、石や煉瓦ではなく、「願い」や「溜息」や「シャボン玉の膜」でできた建築資材で構成されていた。
「この上の街ではね、誰も歩かないの。みんな、風に乗って移動するんだよ。そしてね、朝ごはんの代わりに、朝焼けの光を食べるの」
メルカトルは、呆気にとられてその幻影を見上げた。
彼が積み上げてきた「重厚な現実の都市」の上に、「軽やかな空想の都市」が重なっている。
地上の街が「在るもの」の記録だとすれば、シャルロッテの街は「在り得たかもしれないもの」のカタログだった。
◆
モフモフも、模型の街路を歩くふりをして、突然ジャンプし、シャルロッテの作った「見えない階段」に飛び乗る仕草をした。
そこには物理的な足場はない。しかし、モフモフのパントマイムは、確かにそこに「別の空間」があることを主張していた。
「メルカトルおじいさん。地図にはね、書かれていない場所のほうが、ずっと広いんだよ」
シャルロッテは、模型の王城の尖塔に、そっと息を吹きかけた。
すると、彼女の作った光の蜃気楼が、ゆらりと揺れ、地上の模型と混ざり合った。
一瞬、堅固な石造りの王都が、半透明のガラス細工のように透き通り、空に浮かんでいるかのような錯覚が生まれた。
メルカトルは、ピンセットを置いた。
彼の目には、自分が作った模型が、以前よりも遥かに奥行きを持って見えた。それは、物理的な三次元の奥行きではなく、「可能性」という名の、第四の次元だった。
「……おそれいりました、姫殿下。私の都市は、石でできておりました。しかし、姫様の都市は、光と夢想でできている。どちらも、この王国の真実の姿なのですね」
シャルロッテは、にっこり微笑んだ。
「うん! 重たい街と、軽い街。二つ合わせて、ひとつの王国だよ!」
その日の午後、地図の部屋には、新しい記録は何も増えなかった。
しかし、そこには、目には見えないけれど、誰もが感じることのできる「軽やかで、どこへでも行ける都市」の設計図が、静かに広がっていたのだった。




