第五百三十話「白亜の長布と、姫殿下の『お化けの刺繍遊び』」
しとしとと雨が降り続く午後、王城の奥深くにある「縫製の塔」の最上階は、静謐な空気に満ちていた。
そこには、次の戴冠式のために用意された、幅数メートル、長さ数十メートルにも及ぶ、真っ白な綿の布が広げられていた。
宮廷刺繍家のマダム・フィロは、その広大な白さを前に、針を持ったまま立ち尽くしていた。
「永遠を象徴する図案……。どのような模様を描けば、無限の時を表現できるのかしら。私の頭の中は真っ白で、針が重いわ」
彼女は、芸術家の苦悩の中に沈んでいた。
そこへ、シャルロッテがモフモフを抱いて、ふらりと迷い込んできた。
彼女は、床一面に広がる白い布を見て、目を丸くした。
「わあ、広い! まるで雪原みたいだね」
シャルロッテは、マダム・フィロの困った顔と、止まった手元を見て、小首を傾げた。
そして、彼女の耳に、どこからともなく、チリチリという微かな音が聞こえた。それは、布の繊維が擦れる音か、あるいは「あちら側」からのささやき声のようだった。
「ねえ、マダム。針がね、『勝手に動きたい』って言ってるよ」
シャルロッテは、黒い絹糸が通された針を一本、手に取った。
彼女は、図案を考えたり、下書きをしたりはしなかった。
ただ、糸の導くままに、布の端に針を刺した。
スッ、スッ、スッ。
シャルロッテの手が、勝手に動き出した。
それは、彼女の意思というよりは、見えない誰かが彼女の手を借りて遊んでいるかのような、滑らかで急速な動きだった。
黒い糸が、白い布の上を走り回る。
描かれていくのは、具体的な花や鳥ではない。
無限に続く階段、細かな市松模様、渦巻き、そして幾何学的な網目。それらが複雑に絡み合い、増殖し、布の余白をみるみるうちに埋め尽くしていく。
「シャルロッテ様……!? それは、一体なんの模様ですの?」
マダム・フィロが驚いて尋ねたが、シャルロッテの目は、どこか遠くを見つめているようで、トランス状態にある巫女のように澄み切っていた。
「わからないの。でもね、『ミルニ』っていう名前の、私の心の中にいる編み物が得意なおばけさんが、私の手を引っ張るの。『こっちだよ、こっちだよ』って」
シャルロッテの手は止まらなかった。
モフモフも、その糸の動きに催眠術をかけられたように、目を回しながら糸玉を転がしている。
模様は、まるで生きている蔦のように伸びていった。
階段を登ると、そこには不思議な女性の顔があり、その髪の毛がまた別の階段になり、市松模様の床へと繋がっていく。
それは、混沌としているようでいて、全体として見ると、恐ろしいほどに緻密で、美しい秩序を持っていた。
マダム・フィロは、息を呑んだ。
「これは……デザインではないわ。これは『流れ』そのもの。始まりも終わりもない、魂の地図だわ」
シャルロッテは、何時間も縫い続けた。
彼女は疲れを知らなかった。彼女を通して、何らかの「大きな意志」が、白い布に世界を記述していたからだ。
やがて、巨大な布の半分以上が、黒い糸の迷宮で埋め尽くされた頃、ふっと糸が切れた。
それが合図だったかのように、シャルロッテの手が止まった。
「……あ、行っちゃった」
シャルロッテは、夢から覚めたように瞬きをして、自分の作品を見下ろした。
「わあ! すごい! 迷路がいっぱい! これなら、誰も退屈しないね!」
出来上がったのは、王家の伝統的な紋様とはかけ離れた、しかし見る者をその世界に引きずり込むような、圧倒的な密度の刺繍だった。
それは、見る人の視線を迷わせ、彷徨わせ、そして永遠の時間を感じさせる「無限の織物」だった。
マダム・フィロは、震える手でその布を撫でた。
「永遠……そう、これが永遠の形なのね。どこにも行き着かず、しかしどこへでも行ける道。姫様、これは傑作です!」
マダムは、シャルロッテが残した余白に、自分の針を入れることを諦めた。この作品は、この「未完成のままの増殖」こそが、完成形なのだと悟ったからだ。
シャルロッテは、大量の刺繍をして少しだけ痛む指先をモフモフに舐めてもらいながら、笑った。
「ミルニおばさんはね、とってもお喋りだったよ。糸でお話しするのが好きなんだって」
その布は、戴冠式の装飾ではなく、王城の美術館の奥深くに、「精霊の自動筆記」として展示されることになった。
その模様を見つめていると、時折、白い階段の奥から、誰かが手招きしているような、不思議な感覚に囚われるという。
雨の午後の静かな部屋で、シャルロッテは「見えない友達」と、糸だけで語り合うという、深く神秘的な遊びを楽しんだのだった。




