第五百二十九話「天空の捕虫網と、姫殿下の『世界を結ぶ銀のレース』」
ある秋の朝、王城の人々が目を覚ますと、世界が一変していました。
王城の中庭から塔の頂上にかけて、見たこともないほど巨大な、銀色の「糸」が張り巡らされていたのです。
それは、一夜にして現れた、城を丸ごと包み込むような巨大な蜘蛛の巣でした。
糸の一本一本は鋼鉄のように強く、しかし絹のようにしなやかで、朝霧の中で白く輝いています。
騎士団長のフリードリヒ王子は、剣を抜いて庭に飛び出しました。
「敵襲か!? あるいは、伝説の魔獣『アラクネ』の巣か! これでは城から出られん! 直ちに焼き払うぞ!」
マリアンネ王女も、バルコニーからその幾何学的な構造を見下ろし、戦慄していました。
「この構造……対数螺旋の完璧な再現だわ。自然界の蜘蛛がこれほど巨大で精緻な巣を作るなんて、ありえない。明らかに、高位の知性を持った存在の仕業よ」
城内は、「怪物に捕らわれた」という恐怖に包まれかけました。
しかし、シャルロッテだけは、パジャマ姿のまま庭に出て、その巨大な網を見上げて、うっとりとため息をついていました。
「わあ……。きれい。お城が、レースのドレスを着せてもらったみたい!」
彼女の視線の先、巣の中心には、馬車ほどもある大きさの、美しい銀色の背中を持つ「星蜘蛛」が静かに鎮座していました。
恐ろしい怪物? いいえ、シャルロッテの目には、それは「徹夜で大仕事をした、誇り高き職人さん」にしか見えませんでした。
「待って、フリードリヒ兄様! 切っちゃだめ! この蜘蛛さんはね、悪い虫を捕まえるために網を張ったんじゃないよ」
「なんだと? じゃあ、我々を捕まえるためか?」
「ううん。違うよ」
シャルロッテは、モフモフを抱き上げ、一番低い位置にある糸にそっと触れました。
その糸は、ベタベタするどころか、ひんやりとして、ハープの弦のようにピンと張っていました。
「この網はね、『朝のお日様』を捕まえるための網なんだよ!」
シャルロッテは、蜘蛛に向かって手を振りました。
「ねえ、織り姫さま! あとちょっとで完成だね! 私が、最後の仕上げを手伝ってあげる!」
シャルロッテは、水属性と光属性の魔法を、空に向かって放ちました。
それは、攻撃魔法ではありません。無数の「水滴」を、巣の結び目の一つ一つに、正確に配置していく魔法でした。
数千、数万の小さな水滴が、巨大な蜘蛛の巣に宿りました。
その瞬間、東の空から太陽が昇りました。
カッ!
強烈な閃光が、庭園を包みました。
シャルロッテが配置した無数の水滴が、朝日のプリズムとなり、一斉に虹色の光を放ったのです。
銀色の糸は光の回廊となり、王城全体が、七色に輝く「光のドーム」の中に包まれました。
それは、前世でも神話で語られいた「インドラの網」――網の結び目にある無数の宝石が、互いに互いを映し合い、無限に輝くという宇宙の姿――そのものでした。
「……なんと」
フリードリヒは、剣を取り落としました。
目の前にあるのは、魔物の巣などというおぞましいものではなく、神々しいまでの「光の大聖堂」だったからです。
マリアンネも、計算尺を落として見惚れていました。
「すべての水滴が、城の風景を映し、それがまた別の水滴に映り込んでいる……。これは、世界そのものの縮図だわ」
巨大な星蜘蛛は、その光景を見て満足したのか、身体を光の粒子に変え、糸を伝って空の彼方へと昇っていきました。彼女は、この一瞬の芸術を完成させるためだけに降りてきた、天空の芸術家だったのです。
シャルロッテは、消えゆく蜘蛛に、「バイバイ!」と手を振りました。
「ね、兄様。蜘蛛の巣って、怖くないよ。だってね、世界中の光と、みんなの視線を繋ぐ、銀色のリボンなんだよ」
日が昇りきると、水滴は蒸発し、巨大な巣もまた、朝霧と共に幻のように消え去りました。
しかし、その朝に見た、世界が一つに繋がって輝く光景は、王城の人々の心に、神話のような美しさとして長く語り継がれることになりました。
シャルロッテの足元には、蜘蛛が残していった、一巻きの銀色の糸が落ちていました。
それは、どんな宝石よりも美しく、そして温かい手触りをしていました。




