第五百二十八話「真夜中の行進と、姫殿下の『さよならの音楽隊』」
その夜、王城の廊下には、人間には聞こえないはずの、細く、頼りない笛の音が響いていた。
ヒュルリ、ロロロ……。
それは風の音のようでもあり、誰かの口笛のようでもあった。
夜警をしていた執事のオスカーは、奇妙な光景を目撃した。
廊下の隅から、カチカチ、コトコトと小さな音が聞こえてくる。
目を凝らすと、それはネズミではなかった。
片方だけになった手袋、インクが切れた古い羽根ペン、糸がほつれたボタン、そして錆びついた小さな鍵。
城の中で「いつの間にかなくなっていた」はずの小さなガラクタたちが、まるで意思を持った生き物のように、列をなして歩いているのだ。
「こ、これは……ポルターガイストか!? 直ちに祓わねば……いや、封印か!?」
オスカーが慌てて警報を鳴らそうとした時、影の中からシャルロッテが現れた。
彼女はパジャマ姿で、モフモフを抱き、眠い目をこすりながらも、その行列の最後尾について歩いていた。
「しーっ。静かにね、オスカーさん。驚かせちゃだめだよ」
「姫殿下!? これは一体……」
「『お引越し』だよ。笛吹きさんが、迎えに来たの」
シャルロッテが指差した先、行列の先頭には、輪郭の曖昧な、灰色のマントを羽織った影のような人物がいた。彼が吹く見えない笛の音色が、ガラクタたちを導いていたのだ。
普通の子供なら怖がるところだが、シャルロッテは、その行列が「悲しいもの」ではないことを感じ取っていた。
ガラクタたちは、捨てられた恨みを持っているわけではない。ただ、「もうここでは役に立てないけれど、別の場所へ行けば、また何かの役に立てるかもしれない」という、静かな希望を持って歩いていたのだ。
「オスカーさん。止めちゃだめだよ。この子たちはね、王城でのお仕事を終えて、お休みしに行くところなの」
シャルロッテは、行列の中に見覚えのあるものを見つけた。
それは、彼女が幼い頃に使っていた、欠けた積み木だった。
そして、イザベラ王女が無くして大騒ぎしていた、片方のイヤリングもあった。
シャルロッテは、それらを拾い上げようとはしなかった。
代わりに、彼女は自分のスリッパを脱ぎ、裸足になって、その行列のリズムに合わせて歩き始めた。
ペタ、ペタ、ペタ。
シャルロッテの足音が、笛の音と重なり、行進曲の一部になる。
「さようなら、ボタンさん。私のドレスを留めてくれてありがとう」
「さようなら、羽根ペンさん。兄様の難しいお勉強を助けてくれてありがとう」
シャルロッテは、通り過ぎるガラクタの一つ一つに、小さく手を振り、感謝の言葉をかけた。
すると、薄汚れていたガラクタたちが、月明かりを浴びて、一瞬だけ新品の頃のような輝きを取り戻したように見えた。
彼らは、最後に感謝されたことで、誇りを持って旅立つことができたのだ。
行列は、王城の裏門を抜け、深い森の奥へと続いていた。
笛吹き男は、森の入り口で一度だけ振り返り、シャルロッテに向かって帽子を軽く持ち上げた。顔は見えなかったが、それは「見送ってくれてありがとう」という挨拶だった。
シャルロッテとオスカーは、行列が森の闇に溶けて見えなくなるまで、じっと立ち尽くしていた。
「……行ってしまいましたな」
オスカーが寂しげに呟いた。彼は、あの行列の中に、自分が若き日に失くしたカフスボタンがあったような気がしていた。
「うん。でもね、無くなったんじゃないよ。ただ思い出の国へ帰っただけ」
シャルロッテは、モフモフを抱きしめた。
冷たい夜風が吹いたが、不思議と寒くはなかった。
「おやすみなさい、みんな。そして世界」
翌朝、王城では「失せ物」がいくつか話題になったが、誰もそれを必死に探そうとはしなかった。
城の空気が、少しだけ軽くなり、どこか清々しい「別れ」の余韻が残っていたからだ。
シャルロッテは、空になった引き出しを見て、少しだけ微笑んだ。
物はいつか壊れ、無くなる。
けれど、それを見送る儀式は、とても優しく、美しいものだった。




