第五百二十五話「朝露の舞踏と、姫殿下の『見えないリボンのダンス』」
その日の早朝、王城の庭園は、朝露に濡れた静寂の中にありました。
しかし、その静けさを破るように、カツ、カツ、という厳しい足音が響いていました。
王家の儀典長であるベルンハルトが、シャルロッテに「王族としての正しい歩き方」を指導していたのです。
「姫殿下。背筋を伸ばし、あごを引き、視線は水平に。感情を表に出さず、彫像のように滑らかに歩くのです。それが威厳というものでございます」
シャルロッテは、言われた通りに歩こうとしましたが、どうしても体がムズムズしてしまいました。
彼女には、朝の光や風が、「じっとしていないで、一緒に揺れようよ」と話しかけてきているように感じられたからです。
「ねえ、ベルンハルトおじいさん。まっすぐ歩くのって、なんだか息が詰まっちゃうよ。空気さんは、もっとグルグル回っているのに」
ベルンハルトは眉をひそめました。
「空気は目に見えません。見えないものに合わせてふらついてはなりません」
シャルロッテは、モフモフを芝生の上に降ろしました。
彼女は、靴を脱ぎ、裸足で芝生の上に立ちました。
「ううん。言葉や音にはね、本当は『形』があるんだよ。だから、その形通りに体を動かせば、世界と仲良くなれるの!」
シャルロッテは、まるでバレリーナのように不思議な動きを始めました。
「姫殿下、いったい何をなさ……」
「見てて!」
彼女は両手を大きく広げ、胸を開いて、空を仰ぎました。
「これはね、『アー(A)』のダンス! びっくりした時や、素敵なものを見つけた時の、『わあ!』っていう形だよ!」
彼女が動くと、指先の軌跡に沿って、ごく薄い、朝焼け色をした光の残像が残りました。それは、彼女の内にある「驚き」や「開放」の感情が、空間に直接書き込まれたようでした。
次に、彼女は体を丸め、自分を抱きしめるように縮こまり、そこからゆっくりと温かく広がっていく動きをしました。
「これは、『ムゥ(M)』のダンス! お母さんみたいに優しくて、温かいスープみたいな形!」
モフモフも、シャルロッテの真似をして、後ろ足で立ち上がり、前足をくねくねと動かしています。
それは、端から見れば奇妙な体操でしたが、不思議と優雅で、見ているだけで心が吸い寄せられるような律動を持っていました。
ベルンハルトは、注意しようと口を開きましたが、言葉が出てきませんでした。
なぜなら、シャルロッテが踊るたびに、庭園の植物たちが、目に見えて生き生きとし始めたからです。
萎れかけていた花が首をもたげ、葉の上の露が、音楽に合わせて弾けるように光りました。
「こ、これは……。姫殿下は、風や光と会話をしておられるのか……?」
シャルロッテは、ベルンハルトの手を取りました。
「ねえ、一緒にやりましょう! 次は『ル(L)』だよ。お水が流れるみたいに、サラサラーって動くの!」
ベルンハルトは、儀典長の仮面を外し、ぎこちなく腕を波打たせてみました。
すると、指先が空気に触れる感触が、いつもより濃密に感じられました。空気は空っぽの空間ではなく、見えない「リボン」や「水流」で満たされていて、自分がその一部になったような感覚です。
「……なんと。歩くというのは、地面の上を移動することだけではないのですね。空間の中を『泳ぐ』ことでもあったのですか」
シャルロッテは、最後に、太陽に向かって両手を伸ばし、全身で「命の喜び」を表現するポーズをとりました。
「そうだよ! 世界はね、音楽でできているの。だから私たちは、その楽器になってあげればいいんだよ!」
朝日が完全に昇りきった時、庭園は、今までで一番輝いて見えました。
それは魔法薬を撒いたからでも、剪定をしたからでもありません。ただ、そこにいる人間と動物が、宇宙のリズムに合わせて「正しく(そして楽しく)動いた」ことへの、自然界からの返答でした。
ベルンハルトは、少し乱れた服を直しながら、清々しい顔で言いました。
「姫殿下。明日の歩行訓練は中止にしましょう。代わりに、この『見えないリボンのダンス』を、もう少し教えていただけますかな?」
「うん、いいよ! だってがちがちまっすぐ歩くより、自由に空の中を泳ぐように踊る方がずっと可愛いもん!」
シャルロッテとモフモフは、顔を見合わせて笑いました。
言葉を話さなくても、体を動かすだけで、こんなにも世界と繋がれる。
それは、とても神秘的で、最高に健康的な一日の始まりでした。




