第五百二十四話「ガラスの回廊と、姫殿下の『亀とのお散歩』」
しとしとと雨が降り続く午後、王城の東棟と西棟を繋ぐ長いガラス張りの回廊は、雨音に包まれた「商店街」のような様相を呈していた。
そこは、普段は騎士やメイドたちが忙しく行き交う場所だが、今日のシャルロッテの歩みは、異様なほどに遅かった。
なぜなら、彼女は一匹の小さな陸亀に、リボンをつけて散歩させていたからだ。モフモフもおとなしく彼女のあとをついていっている。
「ゆっくりでいいよ、カメさん。世界は逃げないからね」
そのあまりの遅さに、後ろから歩いてきた新任の式典官、クラウスは足踏みせざるを得なかった。彼は、分刻みのスケジュールで動く、効率の化身のような男だった。
「姫殿下。恐れながら、そのような亀ごときの歩みになさっては、目的地にいつたどり着くかわかりません。抱き上げてお進みになっては?」
クラウスは時計を気にしながら提案した。
しかし、シャルロッテは首を横に振った。
「違うよ、クラウス。私はね、どこかに行くために歩いているんじゃないの。この廊下を読むために歩いているの」
「読む……でございますか?」
「うん。歩くのが速すぎると、景色が流れちゃうでしょう? でもね、カメさんの速さなら、全部が『一枚の絵』みたいに見えるんだよ」
シャルロッテは、光属性魔法をごく薄く、自分の瞳に宿した。それは何かを変える魔法ではなく、視界をフレームで切り取る「額縁」のような魔法だった。
彼女の視点では、見慣れた回廊が、驚くべき「博物館」に変わっていた。
例えば、窓ガラスについた雨粒のレース模様。
例えば、廊下の隅に置かれた観葉植物の葉の裏側。
あるいは、遠くの厨房から漏れ聞こえる皿の触れ合う音と、微かなスープの香り。
それらは、急いで通り過ぎる者にとっては「背景」でしかないが、立ち止まる者にとっては、豊かな「物語」だった。
「見て、クラウス。あそこの窓枠、誰かが落書きを消した跡があるよ。きっと、昔の王子様が怒られたんだね」
「はあ……確かに、微かな削り跡が。しかし、それが何だと言うのです?」
「それはね、『歴史』を拾ったってことだよ!」
シャルロッテは、亀の歩みに合わせて、数歩進んでは立ち止まり、ショーウィンドウを覗き込むように、日常の断片を観察した。
通りかかったメイドが、一瞬だけ疲れた顔をして、すぐに笑顔を作って去っていった。
衛兵が、あくびを噛み殺して、槍を持ち直した。
それらの一瞬の「人間らしさ」を、シャルロッテは「採集」していった。
「みんな、この廊下という舞台で、一生懸命『役』を演じているんだね。でも、ゆっくり見ていると、仮面の裏側がちょっとだけ見えるの」
クラウスは、最初はイライラしていたが、亀の歩調に合わせて強制的にスローダウンさせられるうちに、奇妙な感覚に襲われた。
心拍数が下がり、視界が広がり、普段なら気にも留めない「城の呼吸」のようなものが感じられるようになったのだ。
雨の音。石畳の冷たさ。遠くの話し声。
それらが渾然一体となって、一つの心地よいBGMのように彼を包み込んだ。
「……不思議です。私は毎日ここを走っていましたが、この壁にこんな美しい模様があることすら、知りませんでした」
クラウスは、壁に飾られたタペストリーの、細部の刺繍の狂いに気づき、思わず足を止めた。それは欠陥ではなく、製作者の愛嬌のように見えた。
「でしょう? 目的を持たないで歩くとね、世界の方から『こんにちは』って話しかけてくるんだよ」
シャルロッテは、亀の甲羅を優しく撫でた。
結局、二人が回廊を渡り切るのに、一時間もかかった。
何かを成し遂げたわけでも、問題を解決したわけでもない。
ただ、亀と一緒に、雨の午後の「退屈」を、最高に贅沢な「観察の時間」に変えただけだった。
回廊の出口で、クラウスは深々と一礼した。時計を見るのを忘れていた。
「姫殿下。ご同行させていただき、光栄でした。……今度は、私も亀を飼おうかと思います」
シャルロッテは、にっこりと笑った。
「うん! そうしたら、一緒に『迷子のプロ』になれるね! ぜひそうしましょう!」
それは、効率主義の王城に、ほんの少しだけ「無為の豊かさ」という隙間を作った、静かな散歩だった。




