第五百二十一話「赤土の峡谷と、姫殿下の『地球のミルフィーユ』」
その日は、王家の一行が、避暑地に向かう途中で「竜の顎」と呼ばれる大峡谷に立ち寄っていました。
そこは、大地が巨大な力で引き裂かれたかのような断崖絶壁が続き、赤茶色の岩肌が、何層もの縞模様を描いて露出している場所でした。
アルベルト王子は、崖の断面を見上げ、地質学的な興味を示していました。
「ふむ。素晴らしい地層だ。あの白い層は石灰岩、その下の赤い層は砂岩……。数千万年の歴史が、一目で読み取れる」
フリードリヒ王子は、崖の高さを測るように見上げました。
「攻め入るには難所だが、守るには鉄壁だな。あるいは、ロッククライミングの修行には最適か」
男性陣がそれぞれの視点で岩を見ていた時、シャルロッテはモフモフを抱き、地面に転がっていた奇妙な形の石を拾い上げました。
それは、渦巻き模様のついた、掌サイズの石――アンモナイトの化石でした。
「ねえ、兄様たち。ここは昔、海だったんだね」
シャルロッテの言葉に、アルベルトは頷きました。
「ああ、理論上はそうだ。地殻変動によって海底が隆起し、この山岳地帯が形成されたのだからな」
しかし、シャルロッテの感じている「海」は、理論上の知識ではありませんでした。
彼女は、乾いた風が吹き抜けるこの峡谷に、かつての潮の香りや、波の音、そして巨大な水圧の記憶が、まだ染み込んでいるのを感じていたのです。
「見て。この石さん、まだ泳ぐ夢を見ているよ」
シャルロッテは、化石を崖の地層にそっと当てました。
そして、水属性と時間魔法、それに光属性を、ごく薄く、広範囲に展開しました。
それは、何かを変化させる魔法ではありません。この場所に刻まれた「過去の記憶」を、陽炎のように浮かび上がらせるだけの、観測魔法です。
ヒュオオオ……という風の音が、次第に、ゴォォォ……という、深く重い、水底の音へと変わっていきました。
峡谷の空間が、透明な青い光で満たされ始めました。
空には、雲の代わりに、太陽の光が揺らめく水面が幻影として現れました。
そして、何もないはずの空中に、半透明の魚たちが群れをなして泳ぎ始めました。
「な、なんだこれは……!」
フリードリヒが、自分の周りを泳ぐ古代魚の幻影に、思わず剣を抜きかけ、そして止めました。それらは、あまりにも優雅で、静かだったからです。
アルベルトも息を飲みました。
「古代の海……。我々は今、太古の海底に立っているのか」
巨大な、首の長い海竜の影が、彼らの頭上をゆっくりと通過していきました。
その圧倒的な大きさ。悠然とした動き。
かつて、ここには人間など存在せず、ただ巨大な命の営みだけがあったのです。
モフモフは、目の前を横切る光るクラゲの幻影を、不思議そうに前足でタッチしようとしていました。
シャルロッテは、その幻想的な青い世界の中で、地層の縞模様を指差しました。
「ねえ、見て。この縞々はね、地球が書いた日記帳なんだよ。あるいは、すごく時間をかけて焼いた『地球のミルフィーユ』かな」
一層が一万年。
気の遠くなるような時間が、砂粒一つ一つの積み重ねでできている。
人間の一生など、この崖の厚みの、紙一枚分にも満たないでしょう。
やがて、シャルロッテが魔法を解くと、青い海水は光の粒となって霧散し、再び乾いた赤土の峡谷が戻ってきました。
けれど、その岩肌は、もう単なる岩には見えませんでした。それは、数億年の命を抱きとめた、温かい記憶の塊でした。
「……凄いな。俺たちは、とてつもない時間の上に立っているんだな」
フリードリヒが、足元の地面を踏みしめながら言いました。
「ああ。我々の悩みなど、この地層の前では塵のようなものだ」
アルベルトも、憑き物が落ちたような顔をしていました。
シャルロッテは、拾った化石を、元の場所――地層の窪み――にそっと戻しました。
「おやすみなさい。また、ゆったりと泳ぐ夢を見てね」
風が峡谷を吹き抜けていきました。
その音は、かつての波の音を含んでいるようで、どこか懐かしく、そして寂しい響きを持っていました。
一行は、大地の偉大さと、自分たちのちっぽけさを心地よく味わいながら、再び旅路へと戻っていきました。




