第五百十九話「王城の目覚まし時計と、姫殿下の『音の朝ごはん』」
まだ空が薄い藍色に包まれている早朝。
薔薇の塔の寝室は、ひんやりとした静寂の中にありました。
シャルロッテは、温かい羽毛布団の中で目を覚ましましたが、まだ起き上がりません。
彼女は、枕元で丸くなって寝ているモフモフの、スー、スー、という規則的な寝息を聞きながら、耳を澄ませてそれを待っていました。
王城の一日は、時計の鐘ではなく、もっとささやかな音で始まるのです。
カチャ、コト。
遠くの厨房の方角から、微かな音が響きました。
それは、早番のコックが、重い銅鍋を火にかける音です。
続いて、トントン、トントン、と、リズミカルに野菜を刻む音が聞こえてきます。まな板と包丁が奏でる、朝一番の音楽です。
「あ、スープを作り始めたね」
シャルロッテは、布団の中で小さく呟きました。
その音を聞くと、お腹の底がほんのりと温かくなる気がします。
次は、庭の方からです。
ザッ、ザッ、ザッ。
規則正しく、砂利を踏みしめる音。庭師のハンスが、朝の見回りをしている足音です。
時折、チョキン、と剪定ばさみの音が混じります。伸びすぎた枝を整えているのでしょう。
そして、廊下の方から。
サッ、サッ、サッ。
これは、若いメイドたちが、長い廊下を箒で掃き清める音です。
布が擦れる衣擦れの音や、バケツの水がチャプンと跳ねる音も混じり合い、城が少しずつ「呼吸」を始めているのがわかります。
最後に、決定的な音が近づいてきます。
カツ、カツ、カツ。
硬い革靴が、石畳を正確なリズムで叩く音。
執事のオスカーです。彼の足音には迷いがなく、今日という一日を完璧に整えようとする意志が感じられます。
コン、コン。
扉がノックされました。
「おはようございます、姫殿下。お目覚めのお時間です」
シャルロッテは、布団から顔を出しました。
カーテンが開けられ、朝の光と一緒に、焼きたてのパンの香ばしい匂いが部屋に入ってきました。
「おはよう、オスカーさん。今日も、いい音がしてたよ」
「いい音? でございますか……?」
オスカーは少し不思議そうな顔をしましたが、すぐに穏やかに微笑みました。
彼は、シャルロッテが「城の生活音」を聴いていたことには気づいていませんが、彼女の機嫌が良いことはわかったからです。
シャルロッテは、モフモフを起こし、着替えを済ませて大食堂へと向かいました。
廊下ですれ違うメイドたちの「おはようございます」という声。
遠くの練兵場から聞こえる、フリードリヒ王子たちの「エイ! ヤア!」という掛け声。
アルベルト王子の部屋から聞こえる、ページをめくるカサリという音。
それらすべてが重なり合って、王城という大きな家の「今日」を作っています。
大食堂の席に着くと、コポポポ……と、ポットから紅茶が注がれました。
その澄んだ水音は、シャルロッテにとって、朝の儀式の終わりの合図であり、楽しい一日の始まりの合図でもありました。
特別なことは何もありません。
ただ、たくさんの人が起きて、働いて、生きている音がするだけ。
けれど、その騒がしさが、何よりも心地よく、シャルロッテの心を「今日も大丈夫」という安心感で満たしてくれるのでした。
シャルロッテは、湯気の立つ紅茶を一口飲み、モフモフの頭を撫でました。
「いただきます。今日も、いい音だね」
それは、世界で一番贅沢な、耳で味わう朝ごはんの時間でした。




