第五百十八話「計算だらけの予言室と、姫殿下の『シャボン玉カオス論』」
その日の午後、王立学院の特別棟にある「未来予測室」は、カチコチという無機質な音に支配されていた。
部屋を埋め尽くすのは、無数の振り子と、歯車が噛み合う巨大な計算機。そして、黒板に数式を書き殴っているのは、王国の主席数学者、シモン博士だった。
シモン博士は、物理法則ですべてを予言できると信じていた。
「風速、室温、摩擦係数……。全ての変数が揃えば、コインが裏か表か、いや、明日雨が降る場所さえも、1ミリの誤差なく導き出せるのだ。世界は、決まり切った脚本通りの時計仕掛けに過ぎん」
彼は、シャルロッテの前で、テーブルからボールを転がした。
「見てごらんなさい、姫殿下。このボールは、3秒後にあの壁のシミに当たり、跳ね返って私の足元で止まる」
コロコロ……コン。ピタッ。
予言通りだった。
シモンは得意げに眼鏡を光らせた。
「どうですか。未来とは、計算の答え合わせなのです。驚きなど存在しません」
シャルロッテは、モフモフを膝に乗せて、つまらなそうに頬を膨らませた。
彼女にとって、結末がわかっている物語ほど、退屈なものはない。
「ねえ、シモン博士。わかっちゃってる未来なんて、プレゼントの箱を開ける前に中身を言われちゃうみたいで、全然ワクワクしないよ」
シャルロッテは、ポケットからストローと石鹸水の入った小瓶を取り出した。
「博士の計算機で、これの行方はわかるかな?」
シャルロッテは、ふーっと息を吹き込んだ。
ストローの先から、大小様々な、虹色に輝くシャボン玉が、次々と生まれ出た。
ふわふわ、ゆらゆら。
シャボン玉は、ボールのように一直線には進まない。
わずかな気流に乗り、互いにくっついたり、離れたり、天井へ向かったかと思えば、急降下したりする。
「ふふん、流体力学の計算ですかな。……これは複雑な事象だが、不可能ではない……!」
シモン博士は、猛然と計算を始めた。
「あの大きな泡は、窓からの微風に乗って右へ……小さい方は熱対流で上昇し……」
しかし、その時。
シャルロッテの膝の上にいたモフモフが、目の前を漂うシャボン玉に興味を示し、鼻を近づけた。
「あ、モフモフ、食べちゃだめだよ」
モフモフの鼻先が、シャボン玉に触れそうになった瞬間。
シャボン玉の成分が鼻を刺激したのか、モフモフが大きく息を吸い込んだ。
ハックション!!
子熊の豪快なくしゃみが炸裂した。
その突発的な突風(バタフライ・エフェクト)が、室内の気流を劇的に搔き乱した。
計算通りに動いていたはずのシャボン玉たちは、一斉に軌道を変えた。
あるものは加速し、あるものは弾け飛び、あるものは融合して巨大化した。
さらに、シャルロッテが面白がって、風属性魔法をごく微量、ランダムに混ぜ込んだ。
「きゃはは! 行けー! 虹色のダンス!」
シャボン玉は、シモン博士の計算用紙の周りをぐるぐると回り、彼の眼鏡にペタリと張り付いて弾け、最後には計算機の中に吸い込まれて、ポン、ポン、と愉快な音を立てた。
「あわわわ! 変数が増えすぎだ! 計算不能! エラー! エラー!」
シモン博士は、チョークを折って頭を抱えた。
彼の「決定論的宇宙」は、モフモフのくしゃみと、姫殿下の気まぐれな魔法によって、粉々に打ち砕かれたのだ。
部屋中を漂うシャボン玉は、窓から差し込む光を乱反射させ、無機質だった研究室を、予測不能な光のパーティ会場に変えてしまった。
シャルロッテは、博士の眼鏡についた石鹸水を拭いてあげながら、ニッコリと笑った。
「ね? 博士。次はどこに飛ぶかわからないから、追いかけるのが楽しいんだよ。未来はね、計算するもんじゃなくて、ビックリ箱なんだよ!」
シモン博士は、まだ少し混乱していたが、目の前で不規則に揺らめく虹色の球体を見て、ふと、肩の力が抜けるのを感じた。
「……確かに。この軌道の美しさは、数式には書き表せませんな」
その日の午後、未来予測室の黒板には、数式の代わりに、シャルロッテが描いた「ニコニコマーク」と、シャボン玉の絵が残されていた。
世界は計算通りにはいかない。
だからこそ、明日は今日より可愛いのだ。




