第五百十五話「雪の朝の静寂と、姫殿下の『白い吐息の詩』」
その日の朝、王城は音を失っていました。
夜のうちに降り積もった深雪が、石畳も、屋根も、庭木の枝も、すべてを分厚く覆い尽くし、世界から物音を吸い取ってしまったのです。
執事のオスカーは、まだ誰も踏んでいない中庭の回廊に立ち、箒を持つ手も止め、その圧倒的な「白」と「無音」に見入っていました。
彼の心には、規律正しい生活の中でふと訪れる、空白のような安らぎがありました。
そこへ、シャルロッテが、足音を忍ばせてやってきました。
彼女もまた、この世界の静けさを壊すことを恐れるように、モフモフを抱きしめたまま、オスカーの隣にそっと並びました。
「……おはようございます、姫殿下」
「……ん。おはよう、オスカーさん」
二人の交わす言葉も、白い湯気となって、冷たい空気の中に溶けていきます。
目の前には、凍りついた池と、雪を被って頭を垂れる松の木。
動くものは何もありません。ただ、凛とした冷気だけが、肌を刺します。
シャルロッテは、空に向かって、「ふーっ」と息を吐きました。
口から出た白い息は、形を変えながら揺らぎ、やがて見えなくなりました。
「ねえ、オスカーさん。今の息はね、『雪うさぎが、跳ねたよ』っていう詩なんだよ」
オスカーは、姫殿下の言葉に、俳諧の心を感じ取りました。
紙に書くのではなく、凍てつく空気に一瞬だけ描いて、すぐに消えてしまう詩。それは、この「今」という瞬間を切り取る、贅沢な遊びです。
「なるほど……。では、私も」
オスカーも、厳格な表情を少し緩め、空に向かって長く、ゆっくりと息を吐きました。
それは、細く、長く伸びて、静かに霧散しました。
「……『古き城、時を忘れて、雪化粧』。いかがでしょう」
「うん、素敵。オスカーさんの詩は、まっすぐで、かっこいいね」
二人は、しばらくの間、言葉を使わずに「吐息」だけで会話をしました。
シャルロッテが短く「ふっ、ふっ」と吐けば、それは雪の上を転がる木の実の詩。
オスカーが深く「はあぁ」と吐けば、それは長く厳しい冬を耐える城壁の詩。
その時。
トン。
庭の松の枝から、積もった雪の塊が、ひとひら、池の氷の上に落ちました。
その微かな音が、静寂を破るのではなく、むしろ周囲の静けさを際立たせ、世界が「そこにある」ことを強烈に意識させました。
水紋は広がりません。氷が音を吸い込み、再び、深い静寂が戻ってきます。
シャルロッテとオスカーは、顔を見合わせました。
今の「トン」という音こそが、この朝一番の、最高傑作の詩だったと、二人は直感したのです。
「……いい音だったね」
「はい。心が、洗われるようでございます」
何かを解決したわけでも、魔法で何かを作ったわけでもありません。
ただ、冬の朝の張り詰めた空気の中で、消えゆく吐息と、雪の落ちる音を共有しただけ。
しかし、そこには「変わらない日常」と「二度と戻らない一瞬」が交差する、豊かで奥深い時間がありました。
シャルロッテは、冷たくなった鼻先をモフモフの毛皮で温めました。
「帰ろうか。きっとエマが、温かいスープを作って待ってるよ」
二人は、雪の上に二列の足跡を残して、城の中へと戻っていきました。
その背中を、雪景色だけが、静かに見送っていました。




