第五百十一話「無限回廊の役所と、姫殿下の『認可証スタンプラリー』」
その日の午後、シャルロッテは、王城の地下深くにある「庶務管理区画」を訪れていた。
目的はごく単純なものだった。庭園の隅に、新種の「おじぎ草」を植えるための、「植栽許可証」をもらうこと。ただそれだけだった。
しかし、そこは常識が通用しない迷宮だった。
天井まで届く書類棚が壁のように連なり、廊下は複雑に分岐し、どこからともなくタイプライターを叩く乾いた音だけが響いている。窓はなく、照明は薄暗く、空気は古紙の酸っぱい匂いで満ちていた。
シャルロッテは、モフモフを抱き、第13事務室の扉を叩いた。
中には、顔色の悪い小男の書記官が、書類の山に埋もれていた。
「あの、おじぎ草を植えたいんですけど」
「……申請書A-7号はお持ちですか?」
「ううん、ないよ」
「では、第42廊下の突き当たりにある資材課で、用紙を受け取ってください。ただし、通行証が必要です」
シャルロッテは、言われた通りに第42廊下へ向かった。しかし、突き当たりには扉がなく、ただ壁があるだけだった。通りかかった別の職員に尋ねると、「ああ、あそこは昨日、第56廊下に移動しましたよ。でも、今は昼休みですから、担当官は来週まで戻りません」と、無表情に告げられた。
たらい回し。
それがこの場所のルールだった。
目的には決して到達できず、手続きは増える一方で、責任者は常に「別の部屋」にいる。
普通の人間なら発狂しそうな不条理な状況だ。
しかし、シャルロッテは、薄暗い廊下の真ん中で、目を輝かせた。
「すごいね、モフモフ! ここ、終わりのない迷路だね! 探検し放題だよ!」
彼女にとって、たどり着けないことは絶望ではなく、「冒険が長く続く」という喜ばしい事実だった。
シャルロッテは、再び最初の事務室に戻った。
書記官は、またしても冷たく言った。
「許可証はありませんか。では、却下です。不服申し立ては、地下3階の審問室へ……」
シャルロッテは、書記官の机の上に、ポン! と何かを押した。
それは、彼女が持参していた、モフモフの肉球を模したゴム印だった。インクは鮮やかなピンク色だ。
「これは……?」
「『頑張りましたハンコ』だよ!」
シャルロッテは、積み上げられた未決裁の書類の山を指差した。
「おじさん、毎日こんなに難しい紙と睨めっこして、すごいね。だから、私が許可証をあげるの。おじさんは、偉い!」
書記官は、ピンク色の肉球スタンプが押された書類を見つめた。
その書類は、「却下」でも「承認」でもなく、「肯定」されていた。
彼の灰色の脳細胞が、軋むような音を立てて停止した。
「私は……偉い……のか? 規則には、そのような条項はないが……」
「あるよ! 私の『ニコニコ憲法』の第一条だよ!」
シャルロッテは、モフモフと一緒に、隣の部屋、そのまた隣の部屋へと突撃していった。
彼女は、許可をもらうのではなく、許可を与えて回ったのだ。
「たくさん歩いて偉いねスタンプ」
「字が細かくてすごいで賞」
「ハンコを押すのが速いねメダル」
無機質だった書類の山が、次々とピンク色のスタンプで埋め尽くされていく。
職員たちは、最初は戸惑い、規則違反だと騒いだが、次第にその「意味のない、しかし温かい承認」に、心を解凍されていった。
彼らは、システムの一部ではなく、一人の人間として褒められたかったのだ。
やがて、迷宮の最奥から、管理区画の長官が姿を現した。
彼は、書類の塔がピンク色に染まっているのを見て、震える声で言った。
「これは……手続き上の重大なエラーだ。しかし、なぜか……書類仕事の効率が上がっている。皆の顔色が、生きているようだ」
シャルロッテは、長官のデスクに、最後の一押しをした。
彼女は、自分のポケットから、一枚の紙を取り出し、長官の印鑑を勝手に押した。
「はい、これ! 『おじぎ草を植えてもいいよ許可証』! 私が許可するから、長官さんも許可してね!」
逆転の発想だった。権威に許可を求めるのではなく、自分が権威を許可するのだ。
長官は、呆気にとられ、そして笑い出した。乾いた咳のような笑いだったが、それは確かに人間らしい感情だった。
「……よかろう。姫殿下の『ニコニコ憲法』を、特例措置として受理することにしよう」
その日の夕方、シャルロッテは無事に庭におじぎ草を植えることができた。
王城の地下迷宮は、相変わらず複雑で不条理なままだったが、そこには新しいルールが加わっていた。
書類の隅には、時折、ピンク色の肉球スタンプが押されており、それを見た職員は、少しだけ肩の力を抜いて仕事をするようになったという。
たらい回しの悪夢は、シャルロッテの手によって、終わりのない愉快なスタンプラリーへと書き換えられたのだった。




