第五百七話「雲海の幽霊船と、姫殿下の『小さな灯台守』」
その夜、エルデンベルク王国は、地面が見えなくなるほどの深い霧に沈んでいました。
王城の高い尖塔だけが、乳白色の海に浮かぶ孤島のように、ぽつりと突き出しています。
すべてが湿った静寂に包まれる中、シャルロッテは眠れずに、薔薇の塔の最上階のバルコニーに出ていました。
彼女の腕の中には、同じく目を覚ましたモフモフがいます。
「ねえ、モフモフ。今夜は、お空が海になっちゃったみたいだね」
シャルロッテが手すりから下を覗き込むと、雲と霧が波のようにうねり、音もなく流れていました。
その時です。
ギィィ……。
帆が風をはらむ音と、水を切る音が、霧の奥から聞こえてきました。
現れたのは、一隻の巨大な帆船でした。
しかし、それは木の板でできた船ではありません。船体は透き通るような青白い氷か、あるいは固まった月光でできているようで、帆はボロボロの霧を纏っていました。
甲板には、人影のような、青い炎のような「船員たち」が、無言で立ち尽くしています。
それは、古くから伝わる「雲海を彷徨う船」でした。彼らは、地上に落ちた星屑を拾い集め、空へ還す役目を負っていると言われていますが、今夜は霧が深すぎて、空への道を見失っているようでした。
船は、薔薇の塔のすぐそばを、迷うように旋回していました。
切なげな、低い霧笛のような音が響きます。
普通の人間なら、恐れをなして隠れるところです。
しかし、シャルロッテは、彼らが「迷子」であることを直感しました。
「可哀想に。お家に帰る道がわからないんだね」
シャルロッテは、部屋から愛用のランタンを持ち出しました。
そして、その中に、光属性魔法のごく小さな、しかし純度の高い「道しるべの光」を灯しました。
彼女は、バルコニーの端に立ち、そのランタンを高く掲げました。
霧の中で、その光は温かいオレンジ色に滲み、ポッ、ポッ、と点滅しました。
「こっちだよ! こっちは行き止まり! お空は、あっちだよ!」
シャルロッテは、大きく腕を振って、霧の晴れ間がある方角を指差しました。
幽霊船の船長らしき、背の高い影が、ゆっくりとシャルロッテの方を向きました。
彼には顔がありませんでしたが、その佇まいからは、深い疲労と、それから安堵の気配が伝わってきました。
船が、ゆっくりと回頭します。
シャルロッテのランタンの光を頼りに、船首を正しい空路へと向けたのです。
すれ違いざま、船員たちが一斉に、シャルロッテに向かって帽子(のような靄)を取り、深々と一礼しました。
そして、船縁から、キラキラと光る「砂」のようなものが、パラパラとバルコニーに降り注ぎました。
それは、彼らが積んでいた「星屑」のお裾分けでした。
船は、音もなく上昇し、雲海を蹴立てて、霧の晴れた夜空の彼方へと消えていきました。
後には、風の音だけが残りました。
シャルロッテは、バルコニーに積もった「星屑」を指ですくいました。それは冷たく、金平糖のように角張っていて、微かに銀河の匂いがしました。
「よかったね、モフモフ。無事に帰れたみたい」
モフモフも、空を見上げて「ガウガウ」と低く鳴きました。
翌朝、霧が晴れた王城のバルコニーには、正体不明の美しい銀色の砂が残されていました。
マリアンネ王女がそれを分析しましたが、「成分不明。ただし、強力な加護の魔力を帯びている」としかわかりませんでした。
シャルロッテは、その砂を小瓶に入れて、大切にしまっておくことにしました。
それは、霧の夜にだけ現れる、寂しくて美しい旅人たちとの、一瞬の交流の証だったのです。




