第五百五話「波打ち際の玉座と、姫殿下の『海との水掛け論』」
初夏の陽気が訪れたその日、王家の一行は、プライベートビーチへと行幸していた。
白い砂浜には、ルードヴィヒ国王とシャルロッテ、そしてモフモフが協力して作り上げた、壮大な「砂の王城」がそびえ立っていた。
尖塔も城壁も完璧に再現されたその傑作を前に、国王は腕組みをして満足げに頷いた。
「うむ。我ながら見事だ。これぞエルデンベルクの威信そのもの」
しかし、自然の摂理は無慈悲だ。
夕刻が近づき、潮が満ち始めていた。波先が、砂の城の堀まであと数メートルに迫っている。
シャルロッテが心配そうに言った。
「ああっ! パパ、海さんがお城を食べに来ちゃうよ!」
娘の悲しむ顔を見たくない一心で、ルードヴィヒ国王は立ち上がった。彼の王としてのプライドが、妙な方向に火を噴いたのだ。
「案ずるな、シャル! 余は国王であるぞ。この国の土も、水も、余の臣下だ。海ごときに、余の城を壊させてたまるか!」
国王は、波打ち際に豪奢な椅子を置かせ、そこにドカッと座り込んだ。そして、押し寄せる波に向かって、杖を突きつけ、朗々と宣言した。
「海よ! 余は命ずる! これ以上、進んではならぬ! その波を引け!」
護衛の騎士たちやオスカー執事は、ハラハラしながら見守っていた。
伝説の賢王ならいざ知らず、物理法則が王命を聞くはずがない。
ザザーン……。
波は、王の言葉などどこ吹く風で、ゆったりと、しかし確実に寄せてくる。
「ええい、聞こえぬか! 止まれと言うに!」
ザザザーッ!
ついに、大きな波が一つ、王の足元に到達した。
バシャッ!
波は王のブーツを飲み込み、さらに勢い余って膝まで濡らした。
「ぬおおっ! 冷たい!」
王の威厳は、塩水と共にびしょ濡れになった。
普通なら、ここで「自然の力には勝てぬ」と悟るところだ。
しかし、シャルロッテの解釈は違った。彼女は、魔法で波を止めることもしなければ、城を守る結界を張ることもしなかった。
彼女は、バケツを持って、王の隣に走ってきた。
「パパ! 海さんはね、パパの言うことを聞かないんじゃないよ。『遊ぼう!』って、jaretuite
タックルしてきているんだよ!」
シャルロッテは、寄せてきた波をバケツですくい、あろうことか、王の背中めがけてバシャッとかけた。
「ぶはっ!? シャ、シャル!?」
「海さんがね、『パパもお城も、みんな水浸しになっちゃえー!』って言ってるの! これは『水掛けごっこ』の合図だよ!」
シャルロッテは、キャッキャと笑いながら、今度はモフモフに向かって水をかけた。
モフモフも負けじと、前足で水面を叩き、王に向かって水しぶきを飛ばす。
「なるほど……! これは反逆ではなく、遊戯の誘いであったか!」
国王は、濡れた髪をかき上げ、ニヤリと笑った。
こうなれば、王の威厳など関係ない。あるのは、負けず嫌いな父親の魂だけだ。
「よかろう! 海よ、そしてシャルよ! 受けて立つ!」
国王は、杖を放り投げ、手で海水をすくい上げ、娘と海に向かって反撃を開始した。
砂の城を守るための戦いは、いつの間にか、城を巻き込んだ大乱闘へと変わっていた。
ザバーン! バシャバシャ!
波が来るたびに、三人は歓声を上げて飛び跳ね、びしょ濡れになって転げ回った。
せっかく作った砂の城は、波と、そして大はしゃぎする王様自身の手足によって、無惨にも踏み潰され、溶けていった。
しかし、誰もそれを惜しむ者はいなかった。
一時間後。
完全に崩壊した砂の城の跡地で、ずぶ濡れの王族たちが、肩で息をしながら座り込んでいた。
夕日が、濡れた服と笑顔を黄金色に照らしている。
「……はあ、はあ。城は守れなかったが、海には勝った気がするわい」
国王が、満足げに言った。
「うん! 海さん、最後は『参りました』って、引いていったね!」
シャルロッテが、引き潮を指差して笑った。
王の命令は通じなかった。けれど、海との「全力のじゃれ合い」を通じて、彼らは砂の城以上の思い出を手に入れたのだ。
それは、自然を支配するのではなく、自然の中に飛び込んで一緒に砂だらけになるという、最も原始的で楽しい「和解」の形だった。




