第五百四話「黒い鏡の幻視と、姫殿下の『天使の赤ちゃん言葉』」
その日の深夜、王城の天文塔の最上階にある「星見の間」は、重苦しい香煙と、得体の知れない緊張感に満ちていた。
そこには、異国から招かれた高名な神秘家、ヨハネス博士がいた。彼は、漆黒の闇を湛えた「黒耀石の鏡」を前に、脂汗を流しながら、不可解な呪文を唱えていた。
「……オル・ソンフ・ヴォルスグ……。天使よ、答え給え。王国の未来に横たわる運命を……」
彼が操ろうとしているのは「エノク語」。
人間には発音が難しく、聞く者の精神を削ると言われる、天使(あるいは高次元の存在)の言語だ。
鏡の表面には、不気味な雷のようなノイズが走り、耳障りな、ギギギ、ガガガ、という音が部屋に響き渡っていた。
護衛についていたフリードリヒ王子は、剣の柄に手をかけ、顔をしかめていた。
「なんだ、この不快な音は。まるで、ガラスを爪で引っ掻いているようだ。これが天使の声だというのか?」
ヨハネス博士は震える声で答えた。
「そうです、殿下。高貴なる存在の言葉は、我々人間にはあまりに強大で、恐怖として知覚されるのです。このノイズの中に、破滅の予兆が……」
その時、シャルロッテがモフモフを抱いて、部屋に入ってきた。彼女は、眠れないので夜の散歩をしていたのだ。
「わあ。すごい音だね」
シャルロッテは、少しも怖がる様子を見せず、黒い鏡の前にトテトテと歩み寄った。
彼女の耳には、そのノイズが、博士の言うような「恐怖の予言」には聞こえなかった。
「ねえ、ヨハネスおじいさん。この天使さん、まだ言葉が喋れないんじゃない?」
「は? 言葉が喋れない?」
シャルロッテは、鏡を覗き込んだ。
鏡の中の嵐のようなノイズは、彼女の虹色の魔力と共鳴し、少しずつリズムを変えていった。
ギギギ……バブ……バブゥ……。
「ほら! これ、赤ちゃん言葉だよ! 『エノク語』って、すごく難しい言葉じゃなくて、生まれたばかりの、ピュアな音なんだよ」
シャルロッテは、鏡に向かって、「いないいない、ばあ!」と手を振った。
すると、鏡の表面のノイズが、キャッキャッという、高く、愛らしい笑い声のような振動に変わった。
不気味な黒い鏡の奥から、ピンク色の柔らかい光が漏れ出し始めた。
「な、なんと……! 天使が、笑っている!?」
ヨハネス博士は腰を抜かした。
シャルロッテは解説した。
「あっちの世界の天使さんはね、人間の難しい言葉なんて知らないの。だから、『嬉しい』とか『楽しい』とかを、音の塊で送ってきているだけなんだよ。おじいさんが難しい顔をして怖がるから、天使さんもびっくりして、泣き出しちゃってたの」
シャルロッテは、モフモフの手を持って、鏡の縁をポンポンと叩かせた。
モフモフも「ミィ(あそぼ)」と鳴いた。
鏡からは、ポワン、ポワンと、シャボン玉が弾けるような音が返ってきた。
それは、予言でも啓示でもない。ただの「純粋な交信の喜び」だった。
「未来のことは、何も言っていないね」
シャルロッテは、残念そうに、でも楽しそうに言った。
「ただ、『今、ここにいるよ』って、ニコニコしているだけみたい」
フリードリヒ王子は、剣から手を離し、脱力したように笑った。
「そうか。高貴な存在というのは、案外、暇を持て余した赤ん坊のようなものかもしれんな」
ヨハネス博士は、黒い鏡を見つめ直した。
そこにはもう、恐怖の深淵はなかった。あるのは、シャルロッテとモフモフが映り込み、その背後でキラキラと光る、無邪気な光の粒子だけだった。
「……私は、意味を求めすぎていました。音そのものに、ただ身を委ねればよかったのですね」
その夜の降霊術は、予言を得ることはできなかった。
しかし、天文塔には、異界の存在とシャルロッテによる、意味のない、けれどとても楽しげな「あかちゃん言葉の合唱」が、夜明けまで響き続けた。
それは、難解な神秘主義が、最も原始的で幸福な「お喋り」へと還った夜だった。




