第五百三話「溶ける時計と、姫殿下の『伸び縮みするおやつの時間』」
その日の午後、王城の教育室では、厳格な家庭教師のガブリエルが、大きな懐中時計を片手に、シャルロッテに講義を行っていた。
「姫殿下、よいですか。時間は絶対的なものです。一分は六十秒。一時間は六十分。これは誰にとっても、どんな時でも変わりません。王族たるもの、この規則正しい時間を支配し、一瞬たりとも無駄にしてはなりません」
ガブリエルは、時間を「切り分けられた均等なブロック」のように捉え、スケジュール表にびっしりと予定を詰め込んでいた。三時からは歴史、三時半からは算術、四時からは……。
しかし、シャルロッテは、目の前に置かれたおやつのマカロンを見つめながら、首を傾げた。
彼女の感覚では、時間は決して均等ではなかったからだ。
「ねえ、ガブリエル先生。それは違うよ。時間はね、ゴムみたいに伸びたり縮んだりするんだよ」
「ゴム? 何を非科学的なことを。時計の針をご覧なさい。一定のリズムで進んでいるでしょう」
シャルロッテは、モフモフを膝に乗せて言った。
「ううん。時計さんは嘘つきなんだよ。だって、大好きなおやつを食べている時の『一分』は、瞬きする間に終わっちゃうのに、嫌いなものを食べている時の『一分』は、ずーっと終わらないんだもん」
彼女が言っているのは、心理的な時間――ベルクソンが言うところの「持続」だった。過去、現在、未来が溶け合い、感情によって伸縮する、生きた時間の実感だ。
「それは気のせいです。さあ、おやつの時間はあと五分で終了です」
ガブリエルが無慈悲に告げる。
シャルロッテは、その冷たい「空間化された時間」に、魔法で対抗することにした。
「見ててね、先生。これが『本当の時間』の形だよ!」
シャルロッテは、光属性と時間魔法を、ごく感覚的に融合させた。
彼女の魔法は、部屋の中の「時間の感じ方」を、視覚的な物質として具現化した。
すると、ガブリエルの持っていた懐中時計が、ぐにゃりと歪み始めた。
硬い金属だったはずの時計が、まるで熱せられた飴細工か、カマンベールチーズのようにとろりと溶け出し、机の端からだらりと垂れ下がったのだ。
「ひぃっ!? と、時計が!」
部屋の中の景色も変容した。
シャルロッテがマカロンを口に入れると、周囲の空気はピンク色の綿菓子のようにふわふわと軽く、そして驚くべき速さで流れ去っていった。
「あ、もうなくなっちゃった! 美味しい時間は、すばしっこいね」
逆に、ガブリエルが「さあ、勉強の時間です」と言った瞬間、空気は水飴のように重く、粘り気を帯びて滞った。
秒針の音が、ボーン……ボーン……と、永遠の間隔を空けて響く。
「ほらね、先生。勉強の時間は、ネバネバしてて、なかなか進まないでしょう?」
ガブリエルは、自分の感覚と時計の針が完全に乖離する体験に、目眩を覚えた。
一秒が永遠に感じられたり、一時間が一瞬で過ぎ去ったりする。それは、彼が信じていた「均質な時間」の崩壊だった。しかし同時に、そこには強烈な「生きている」という実感があった。
そこに、公務の合間に休憩をとっていたルードヴィヒ国王が通りかかった。
彼は、溶けて垂れ下がった時計を見て、大いに笑った。
「ハッハッハ! これは傑作だ。確かに、退屈な会議の時間は、泥沼のように進まぬからな」
国王は、シャルロッテの隣に座り、娘の手を握った。
「シャルよ。父との時間はどうだ?」
「パパとの時間はね、キラキラしてて、ソーダ水みたいにシュワシュワって過ぎちゃうの!」
シャルロッテがそう言うと、二人の周りの時間は、本当に炭酸の泡のように軽やかに弾け、虹色の光を放った。
それは、計測不可能な、質の高い「充実した時間」の具現化だった。
ガブリエルは、垂れ下がった時計を元に戻そうとするのを諦めた。
「……認めざるを得ませんな。時間は、区切られた箱ではなく、流れる音楽のようなものなのかもしれません」
その日の午後、教育室のスケジュール表は無視された。
代わりに、シャルロッテと国王とガブリエル(とモフモフ)は、「溶けたり、伸びたり、弾けたりする時間」を、ただ心ゆくまで味わい尽くした。
時計の針は進んでいたけれど、彼らが過ごした「豊かさ」は、どんな精密な時計でも測ることはできなかった。
シャルロッテにとって、時間とは管理するものではなく、美味しく食べるものだったのだ。




