第五百話「闇に浮かぶ緑の灯と、姫殿下の『森の深呼吸』」
その日の夜、エルデンベルク王城の裏手に広がる原生林は、昼間に降った雨を含んで、重く湿った空気に満ちていた。
月明かりさえ届かない深い木々の下は、漆黒の闇だ。
しかし、シャルロッテは、庭師のハンスに連れられて、その暗闇の中を、泥だらけのブーツで進んでいた。
華やかなドレスも、宝石も、ここにはない。
あるのはただ、土と枯れ葉が発酵する、むせ返るような森の匂いだけだ。
「姫様。足元にお気をつけて。ここは、人間ではなく、森の住人たちの領域ですから」
ハンスが持つランタンの灯りを、彼はわざと絞った。
シャルロッテは、モフモフをしっかりと抱きしめた。モフモフの鼻が、湿った空気をクンクンと嗅ぎ、興奮したように小さく震えている。
「うん。ハンスさん。静かにね。森が起きちゃうからね」
三人は、太い倒木が折り重なる、森の最も深い場所、「朽ち木の谷」へと降りていった。
そこは、死んだ木々が土に還る場所であり、同時に、新しい命が生まれる揺りかごでもあった。
ハンスが立ち止まり、ランタンの火を完全に消した。
世界が、完全な闇に包まれる。
一秒、二秒。目が闇に慣れてくる。
すると、足元の闇の中から、ぼうっ……と、幽霊のような淡い光が浮かび上がってきた。
「わあ……」
シャルロッテの息が、白い霧となって漏れた。
そこには、倒木や湿った地面を覆うように、数え切れないほどの小さなキノコたちが、蛍光グリーンの光を放っていたのだ。
一つ一つは頼りない光だが、数千、数万と集まることで、地面に「緑の天の川」が流れているようだった。
「姫様。これが、『夜光茸』でございます」
ハンスが囁くように言った。
シャルロッテは、しゃがみ込み、光るキノコの一つに顔を近づけた。
傘の裏側のひだ一本一本までが、自ら発光し、透き通るように輝いている。それは魔法ではなく、このキノコが生きるために備えた、純粋な生命の営みだった。
「すごいね、モフモフ。魔法を使っていないのに、こんなに明るいよ」
シャルロッテは、魔法で光を強めたり、色を変えたりしようとはしなかった。
この光は、枯れた木や落ち葉を養分にして、静かな時間の中で醸成されたものだ。人工的な手が加わる余地などない、完成された「自然の灯火」だった。
静寂の中で、ポタリ、と雫が落ちる音が響く。
その音に驚いて、小さな夜行性の羽虫が飛び立った。虫たちは、キノコの光に引き寄せられ、胞子を運ぶ手伝いをするのだ。
「……森は、眠っていないんだね」
シャルロッテは感じ取っていた。
この暗闇の中で、腐敗と再生、光と闇、虫と植物が、複雑に絡み合いながら、巨大な一つの生命として呼吸していることを。
昼間の明るい庭園で見ている「綺麗な自然」は、ほんの一部に過ぎない。この湿って、少し不気味で、でも圧倒的に美しい夜の森こそが、生命の源なのだ。
「枯れた木が土に還り、その栄養がまた光になる。自然には、無駄なものは何一つございません」
「うん。終わることは、悲しいことじゃなくて、次の光になることなんだね」
シャルロッテは、光るキノコの群生を見つめ続けた。
それは、宝石のような硬質な輝きではなく、体温を感じさせるような、柔らかく揺らぐ光だった。
しばらくして、遠くでフクロウが鳴いた。
三人は、森の儀式を邪魔しないように、静かにその場を後にした。
城に戻ったシャルロッテのブーツは泥だらけだったが、彼女の心は、あの幽玄な緑の光で洗われたように澄み渡っていた。
彼女はベッドに入り、窓の外の闇を見つめた。
あそこには、誰も知らない光が、今も静かに灯り続けている。
「おやすみ、森のランプさん」
それは、華やかなパーティーの翌日にふさわしい、深く、静かで、豊かな夜の冒険だった。




