第四百九十七話「モノクロームの賢者と、姫殿下の『赤色の味』」
その日の午後、王立学院の奥深くに、「色彩遮断室」と呼ばれる奇妙な研究室がありました。
そこは、壁も床も本も、すべてが白と黒と灰色だけで構成された、完全なモノクロームの空間でした。
部屋の主は、色彩学の権威である老学者、テオドール博士です。
彼は、色が人間の判断を惑わせると信じ、あえて色を絶った空間で、文献と数値データだけを頼りに「色彩の真理」を研究していました。
「赤とは、波長約620から750ナノメートルの電磁波である。人間の視神経を刺激し、交感神経を活性化させる……。私は『赤』のすべてを知っている。見る必要などないのだ」
テオドール博士は、分厚い黒表紙の本を読み上げ、満足げに頷いていました。
◆
そこへ、シャルロッテが、モフモフを連れてトテトテと入ってきました。
突然の来訪者に、博士は目を丸くしました。なぜなら、白黒の世界に、圧倒的に鮮やかな「色彩」が飛び込んできたからです。
シャルロッテの銀髪、翠緑の瞳、パステルピンクのドレス。そして、モフモフの艶やかなこげ茶色の毛並み。
「おや、姫殿下。ここは色彩を排した論理の聖域ですよ」
「ねえ、テオドールおじいさん。ここ、目がチカチカしない? 色がなくて寂しくないの?」
シャルロッテは、不思議そうに灰色の部屋を見回しました。
博士は、少しムッとして反論しました。
「寂しい? とんでもない。私はこの部屋にいながらにして、世界中のあらゆる色の『知識』を持っています。青空の青さも、若葉の緑も、すべて数式と理論で完璧に理解しているのです」
シャルロッテは、モフモフのずんぐりした背中を撫でながら、首を傾げました。
「ふうん。じゃあ、おじいさんは『赤』のことを全部知っているの?」
「もちろんですとも。赤の物理的特性、歴史的象徴、心理的効果……全て私の頭の中にあります」
シャルロッテは、持っていたバスケットから、一つのお土産を取り出しました。
それは、庭師のハンスが育てた、完熟の真っ赤なリンゴでした。
モノクロームの部屋の中で、その「赤」は、暴力的なまでに鮮烈に存在を主張していました。
「じゃあ、このリンゴの『赤』は、どんな味がするの?」
博士は鼻で笑いました。
「味? それは色彩学ではなく味覚の問題ですが……成分表を見ればわかります。糖度、酸度、果肉の硬度……」
「違うよ」
シャルロッテは、リンゴを博士の手に強引に握らせました。
そして、モフモフが「ガウッ(うまそうだ!)」と低い声を上げ、鼻をヒクヒクさせてリンゴに近づきました。熊にとって、リンゴはご馳走です。
「モフモフ、待て。これはおじいさんのだよ」
シャルロッテは、モフモフの丸い耳を押さえながら、博士に言いました。
「おじいさん。食べてみて。『赤』を食べてみて」
博士は、手の中の物体を見つめました。
彼の知識にある「700ナノメートルの波長」というデータとは違う、ずっしりとした重み、冷たさ、そして表面の微かな凹凸。
彼は、震える手でリンゴを口に運び、ガブリと齧りました。
シャリッ!
その瞬間。
口の中に、甘酸っぱい果汁が爆発し、鼻腔をフルーティーな香りが突き抜けました。
そして、彼の視覚に焼き付いていた「赤」という情報が、味覚、嗅覚、触覚と結びつき、強烈な「体験」となって脳髄を駆け巡りました。
「こ、これは……!」
博士は目を見開きました。
彼が知っていた「赤」は、記号でしかありませんでした。
今、彼が感じている「赤」は、太陽の熱、大地の養分、そして生命のエネルギーそのものでした。
「……私は、『赤』について何も知らなかった。この、胸が高鳴るような『赤の味』は、どの文献にも載っていなかった!」
知識と体験の壁が崩れ去った瞬間でした。
シャルロッテは、博士の驚いた顔を見て、にっこりと笑いました。
「そうでしょ? 『知ってる』のと『感じる』のは、全然違うんだよ。世界はね、説明書じゃなくて、宝箱なんだから!」
そして、シャルロッテは、モフモフの背中を博士に触らせました。
「ほら、この『茶色』も知ってる?」
博士が恐る恐る触れると、指が分厚い冬毛に埋まり、じわりと野生の体温が伝わってきました。
モフモフは「グルル……」と喉を鳴らし、博士の手に自分の大きな頭を擦り付けました。
「……温かい。そして、力強い。これが『茶色』の手触りですか」
テオドール博士は、部屋の遮光カーテンを、勢いよく開け放ちました。
窓から差し込む午後の陽光が、部屋中のモノクロームを七色に染め上げました。
「姫殿下。私は今日、初めて世界を見ました。研究はやり直しです。今度は、外に出て!」
シャルロッテは、残りのリンゴをモフモフにあげながら(モフモフはそれを一口で噛み砕きました)、満足げに頷きました。
「うん! 一緒に行こう! 世界には、まだ食べたことのない色が、いーっぱいあるよ!」
知識の部屋から飛び出した賢者は、幼い教師と一匹の熊に導かれ、無限の「体験」が待つカラフルな世界へと足を踏み出したのでした。




