第四百九十二話「嵐の夜の珍客と、姫殿下の『パンケーキの哲学』」
その夜、エルデンベルク王国には、季節外れの嵐が吹き荒れていた。
風は、お腹を空かせた狼のようにヒューヒューと鳴き、雨は窓ガラスをバシャバシャと叩いていた。
けれど、薔薇の塔の中は、暖炉の火がパチパチと燃え、安心できるオレンジ色の光に満ちていた。
シャルロッテは、愛用のロッキングチェアに座り、モフモフに読み聞かせをしていた。
その時、バルコニーのガラス戸を、コツ、コツ、と叩く小さな音がした。風の音とは違う、遠慮がちなリズムだった。
「おや? こんな嵐の晩に、誰だろう?」
シャルロッテがカーテンを開けると、そこには、ずぶ濡れになった「灰色のちいさなひと」が立っていた。
それは人間でも動物でも妖精でもなく、ただ「寂しくて濡れている何か」だった。大きな目をしていて、古ぼけた帽子を握りしめ、震えている。
普通の王城なら、警備兵を呼ぶところだ。
しかし、シャルロッテは、迷わず鍵を開けた。
「まあ、入って。そんなところにいたら、風邪をひいちゃうわ」
「灰色のひと」は、無言のまま、ペタペタと濡れた足跡をつけて部屋に入ってきた。彼は、暖炉の前の敷物の上にちょこんと座り、小さく身を縮めた。
モフモフは、警戒するどころか、鼻を近づけて「フンフン」と匂いを嗅ぎ、安心したように隣に座った。どうやら、このお客さんは「敵」ではなく、「ただ悲しいだけの人」らしい。
シャルロッテは、タオルを持ってきて、お客さんを拭いてあげた。
そして、エマを呼ばずに、部屋に備え付けの小さなコンロで、フライパンを温め始めた。
「こんな夜にはね、理由なんて聞かなくていいの。必要なのは、熱いコーヒーと、山盛りのパンケーキだけよ」
シャルロッテは、バターをたっぷりと溶かし、パンケーキを焼き始めた。
ジュウゥ……という音と、甘く香ばしい匂いが部屋に広がると、嵐の音が少し遠のいた気がした。
焼きあがったパンケーキを三段重ねにし、その上にベリーのジャムをどっさりと乗せる。
シャルロッテは、それをお客さんの前に置いた。
「さあ、どうぞ。ジャムは多ければ多いほどいいのよ」
「灰色のひと」は、大きな目でパンケーキを見つめ、それからフォークを手に取り、一口食べた。
もぐ、もぐ。
彼は、何かを語ることはなかった。名前も、どこから来たのかも言わなかった。
ただ、パンケーキを食べるごとに、彼の体の「灰色」が、少しずつ薄れ、輪郭がふんわりと柔らかくなっていくようだった。
シャルロッテも、自分の分を切り分けながら、独り言のように言った。
「世界にはね、たくさんの『居場所がない人』がいるの。でも、パンケーキを食べている間だけは、そこがその人の居場所になるんだよ。だから、急いで食べなくてもいいの。ゆっくり、ゆっくりね」
それは、とてもシンプルな、しかし深淵な哲学だった。
理解する必要はない。解決する必要もない。ただ、温かいものを分け合い、嵐が過ぎるのを待つこと。それが「家族」や「友達」の始まりなのだ。
やがて、パンケーキが最後のひとかけらになり、コーヒーカップが空になった頃、窓の外の風の音が止んだ。
嵐は、嘘のように去っていた。
「灰色のひと」は、立ち上がり、深々と頭を下げた。
そして、ポケットから、一個の「白くて丸い石」を取り出し、テーブルの上に置いた。
それは、宝石ではなかったけれど、握るとほんのりと温かく、波の音が聞こえる不思議な石だった。
彼がバルコニーから出ていくのを、シャルロッテは見送った。
月が出て、庭園の水たまりを銀色に照らしていた。彼は、月光の中に溶けるように、静かに消えていった。
「……行っちゃったね、モフモフ」
翌朝、アルベルト王子が、昨夜の警備報告書(異常なし)を持ってやってきた。
彼は、テーブルの上の白い石を見て首を傾げた。
「シャル。これは何だい? 珍しい鉱石に見えるが」
シャルロッテは、石を握りしめて、にっこりと笑った。
「これはね、『ごちそうさま』の石だよ。昨日の夜、嵐と一緒に来たお友達が置いていったの」
「お友達? 誰だい?」
「名前は知らないの。でも、ジャムがとっても好きな人だったよ」
アルベルトは、妹の謎めいた言葉に苦笑し、それ以上は聞かなかった。
薔薇の塔には、時々、論理では説明できない優しい風が吹くことを知っていたからだ。
シャルロッテは、その石を窓辺に飾った。
それは、誰のものでもない自由な魂と、一晩だけの温かい交流の証として、静かに光り続けていた。




