第四百九十一話「夕暮れの桟橋と、姫殿下の『届かない手紙』」
その日の夕暮れ、王城の離宮にある古い湖畔の桟橋は、静かな霧に包まれていた。
湖面は鏡のように平らで、空の茜色と群青色が溶け合う様子を、そのまま映し出している。
そこに、老いた元外交官の執事、スティーブンスが立っていた。彼は、すでに引退していたが、時折こうして思い出の場所を訪れるのが日課だった。
彼の背中は、長年の職務と、語られなかった想いの重さで、少しだけ丸まっていた。
シャルロッテは、モフモフを抱き、スティーブンスの隣に並んだ。
彼女は、彼の横顔に浮かぶ、深い皺の一つ一つが、過去の時間の年輪であることを知っていた。
「スティーブンスさん。今日のお空の色、昨日よりも少しだけ濃いね」
スティーブンスは、ゆっくりと頷いた。
「ええ、姫様。夕暮れは、毎日違います。まるで、記憶のように」
彼の視線は、湖の対岸に向けられていた。そこにはかつて、彼が密かに想いを寄せていた女性が住んでいた別邸があった。しかし、今はもう取り壊され、更地になっている。
彼は、その「不在」を見つめていたのだ。
シャルロッテは、ポケットから一枚の便箋を取り出した。
それは、何も書かれていない、真っ白な紙だった。
「ねえ、スティーブンスさん。この手紙、誰に出そうかな?」
スティーブンスは、微かに微笑んだ。
「宛名のない手紙ですか。それは、一番難しい手紙ですね。誰に届くかも、何を書くべきかもわからない」
「ううん。決まっているの」
シャルロッテは、便箋を折り、紙飛行機にした。
彼女は、光属性と風属性の魔法を、ごくわずかに、その紙飛行機に込めた。それは、飛行を補助するものではなく、「言葉にできない感情」を乗せるための魔法だった。
「この手紙はね、『言えなかった言葉』を運ぶためのものだよ」
シャルロッテは、紙飛行機を湖に向かって飛ばした。
紙飛行機は、風に乗って、驚くほど滑らかに、遠く、遠くへと飛んでいった。夕闇に吸い込まれるように、対岸の方角へ。
「スティーブンスさんの分も、乗せておいたよ」
スティーブンスは、目を見開いた。
彼が何十年も胸に秘め、決して口にすることのなかった言葉。職務への忠誠と引き換えに封印した、個人的な感情。
それらが今、あの白い翼に乗って、届くはずのない場所へと飛んでいくのが見えた気がした。
「……姫様。私は、何も申し上げておりませんが」
「うん。でも、聞こえたよ。背中が、しっかりと、お話していたから」
紙飛行機は、やがて見えなくなった。
湖に波紋は立たなかった。ただ、静寂だけが残った。
しかし、スティーブンスの心の中にあった、澱のような重みは、不思議と軽くなっていた。
「届かない」と諦めていた想いが、形を持って飛び立ったという事実が、彼を救ったのだ。
「日は沈みましたね。そろそろ戻りましょうか」
スティーブンスの声は、以前よりも少しだけ穏やかだった。
彼は、完璧な執事としての礼儀正しさを保ちながらも、その瞳には、夕暮れの残照のような温かい光が宿っていた。
シャルロッテは、モフモフの手を握った。
「明日も、いい日になるといいね」
特別なことは何も起きなかった。
ただ、年老いた執事が、自分の中の「失われた可能性」と和解し、それを静かに見送っただけの時間。
シャルロッテは、その静謐な儀式の証人として、ただそこに寄り添っていたのだった。




