第四百八十四話「屋根裏の箪笥と、姫殿下の『四角い宇宙』」
その日は、朝からしとしとと冷たい雨が降っていた。
王城の広間や廊下は、幾何学的で、どこまでも広く、少し寒々としていた。天井は高く、足音は遠くへ逃げていき、そこには「誰のものでもない空間」が広がっているように感じられた。
シャルロッテは、その広大すぎる世界から、少しだけ身を隠したくなった。
彼女はモフモフを抱き、誰にも見つからないように、北の塔の最上階にある古い衣装部屋へと忍び込んだ。
そこには、代々の王族が使った古い家具が眠っていた。
シャルロッテが選んだのは、部屋の隅に置かれた、重厚なオーク材の巨大な衣装箪笥だった。
「ねえ、モフモフ。今日はここが、私たちのお家だよ」
彼女は扉をきしませて開き、中に入り込んだ。
中には、防虫用の乾燥したラベンダーの香りと、古い木の甘い匂いが充満していた。
シャルロッテは、中で膝を抱え、モフモフを抱きしめて、扉を細く隙間が残る程度に閉めた。
カチリ。
世界が、遮断された。
暗闇の中、シャルロッテの呼吸と、モフモフの温かい体温だけがそこにあった。
狭い。けれど、窮屈ではない。
むしろ、壁が体に触れるほどの狭さが、彼女の輪郭を確かめさせ、「守られている」という深い安堵感を与えていた。
シャルロッテは、目を閉じた。
視覚が閉ざされると、想像力の扉が開く。
「……ここはね、嵐の海に浮かぶ、小さな木の舟の中だよ」
屋根を叩く雨音が、遠い波の音に聞こえてくる。
古い木の匂いは、船底の匂いだ。
暗闇は、深海の底のような、あるいは宇宙の果てのような、無限の奥行きを持って広がり始めた。
物理的には狭い箱の中なのに、精神的には、王城のどの広間よりも広大な「夢想の宇宙」がそこに展開されていた。
彼女は、ここでならどこへでも行ける。過去へも、未来へも、物語の中へも。
そこへ、衣装部屋の扉が開く音がした。
入ってきたのは、イザベラ王女だった。彼女は、昔のドレスを探しに来たようだ。
イザベラは、部屋を見渡し、箪笥の扉がわずかに開いていることに気づいた。
「……あら? 誰かいるの?」
イザベラが扉を開けると、そこには、衣服の陰にうずくまるシャルロッテとモフモフがいた。
二人は、まるで冬眠するリスのように、丸くなってこちらを見上げた。
「シャル? そんな狭いところで、何をしているの? 暗くて怖くない?」
シャルロッテは、首を横に振った。
彼女の瞳は、暗闇に慣れ、深く澄んでいた。
「ううん。お姉様。狭いところはね、怖くないよ。ここは『巣』なの」
シャルロッテは、隣のスペース――モフモフの反対側――をぽんぽんと叩いた。
「お姉様も、入ってみる? 世界がね、全部なくなって、自分だけの夢が見られるよ」
イザベラは、優雅なドレスを気にして一瞬躊躇したが、妹の誘うような瞳と、その空間の持つ奇妙な引力に負けた。
彼女は、靴を脱ぎ、そっと箪笥の中に滑り込んだ。
扉が再び閉じられる。
イザベラは、暗闇と、木の匂いと、妹と獣の体温に包まれた。
最初は窮屈に感じた。しかし、数秒もしないうちに、不思議な感覚が彼女を襲った。
王女としての責務、社交界の視線、完璧な美への強迫観念――そういった「外側の世界」が、分厚い木の扉によって完全に遮断されたのだ。
ここには、他人の目は存在しない。
ただ、「存在している自分」と、「温かい闇」があるだけ。
「……不思議ね。まるで、卵の中に戻ったみたい」
イザベラが呟くと、シャルロッテが暗闇の中でクスクスと笑った。
「そうでしょ? ここはね、隅っこだけど、世界の中心なんだよ。ここでじっとしていると、心がふくらんで、羽根が生えてくるの」
二人は、しばらくの間、言葉を交わさずにじっとしていた。
雨音が、屋根を優しく叩き続ける。
それは、この小さな「木の殻」を守るための子守唄のようだった。
イザベラは、知らず知らずのうちに、幼い頃に夢見た空想の風景――雲の上の城や、虹色の魚が泳ぐ空――を思い出していた。
狭い空間が、彼女の想像力を凝縮し、そして爆発させたのだ。
「……出るのが、もったいなくなっちゃったわね」
「うん。でもね、ここから出る時は、新しい自分に生まれ変わる時だよ」
しばらくして、夕食を知らせる鐘が、遠くで鳴り響いた。
その音は、現実世界からの呼び声だった。
シャルロッテが、扉を押し開けた。
部屋に差し込む夕暮れの光が、眩しく感じられた。
箪笥から這い出した二人は、服のシワを直し、顔を見合わせて微笑んだ。
何をしたわけでもない。ただ、暗い箱の中で丸くなっていただけだ。
けれど、その瞳は、長い旅を終えて帰還した冒険者のように、深く、満足げに輝いていた。
「行こう、お姉様。世界が待ってるよ」
シャルロッテは、モフモフを抱き直し、イザベラの手を取った。
彼女たちは、「内なる広大な宇宙」をポケットにしまい込み、再び、現実という名の広い世界へと歩き出したのだった。




